はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『因幡郡家』、『郷原』を参照していただくようお願いいたします。 2012. 8.26. 日曜日 晴れ 気温 ただただ暑い
2010年に念願の綾木峠を歩くことが出来た。 そこは智頭町から見ると八頭へ抜ける峠であると同時に、古来から伊勢へ向かう伊勢道だった。 八東側の入り口である柿原の集落は現在廃村状態であるが、そこには太神宮(だいじんぐう)灯籠が 残っており、伊勢道だったことを示している。 ちなみに若桜には伊勢道を示す石の道標などか町のあちこちに残されており、 そこからは最大の難所であった氷の越えで兵庫へ至るのだった。
柿原から若桜までは、現在なら八東川沿いに29号線で南下すればあっというまだが、
昔は山道でいくつかの峠を越える方が効率がよかった。
それは佐崎、奥野、茂谷の三つの集落を通過するルートで、現在は中国自然歩道として
道が残されている。今回はそれを辿る計画だが、MTBで走りたいので逆方向の若桜から柿原を目指してみたい。
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チャックを開くと靴にな〜る | 山ボーイさんに見送られ・・ |
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車を走らせているときに靴を積み忘れたことに気が付く。アクセルを踏んでいる足元はアウトドア用のサンダルだが これでは到底無理。幸い?折りたたみのキャンプシューズが車内にあるので これが代用できそうだ。スタート地点に考えていた三倉川の途中にある中国自然歩道の 案内板前に到着。ちなみにこの案内板の裏側には三倉洞窟 なるものが存在しているのだが、ここに車を止めるハイカーのほとんどはその存在を知らない・・・。
いそいそと準備をしていると一台の車が到着。登山者かと思ったら若桜の山ボーイさんだった。
早朝(深夜?)から氷ノ山に登っての帰りだという。今日私がここに来るのを知らせていたのでお見送り?
そうとわかれば前もって今回のルートの質問事項を書き留めて来るんだった。
9時12分スタート。
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盛次大権現 | 峠の登り口 |
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質問その1はこの『盛次大権現』だ。以前聞いたことを思い出してここに書き留めると、 盛次は平家一門の一人、平盛次(盛嗣、盛継とも言われる)で壇ノ浦の戦いで生き残り、 (正史によると?)但馬に潜伏後、鎌倉に捕らえられ斬首となった。 しかし、ここ若桜では、この石碑のある三倉に潜伏していたという伝説が残っている。 ただただ伝説だけが残っている訳ではなく、 盛次にちなんで盛田姓を名乗っている子孫もいるのだった・・・ (実は今朝お会いした人のことですけど)。 この碑の裏側にも『昭和54年4月 盛次直裔 盛田○○建之』とある。
肝心の峠の登り口は地形図にある点線ルートとは違っているので要注意だが、
わかりやい標識が案内してくれる。ここからは久しぶりの担ぎだ。
足元はふらふら、心拍数は一気に上がり、右肩が痛くなる。
なにもかも初心者に逆戻りした感じでこの先が不安になる。
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右肩が痛い | 稜線に到着。遠見山との分岐 |
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何度も休みながら、そのたびに水分補給をしながら、一歩一歩階段を登っていく。 応急の靴もまあまあ歩ける。スタート地点からほぼ1時間で稜線にたどり着く。 とりあえず汗びっしょり・・・。
遠見山との分岐で写真を一枚。遠見山は
去年の夏にTQFさんと歩いた山だ。
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峠まで一乗り | 郡家の風力発電が見える |
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峠までは平坦なのでさっそくMTBにまたがる。やっぱり舗装路より山道が楽しい。 わずか1分の距離だが爽快だ。1年前には峠に朽ちた道標があったのだが、 今は真新しい道標に変わっていた。ここでおやつ休憩。
おやつを食べながら石仏にご挨拶。改めて光背部分の文字に目をこらすが
解読不能。詳細は去年の遠見山のレポートをごらんあれ。
そして、こんどは植林の空間に目をこらすと、向こうに風力発電の施設が見える。
ということは、
この峠を越える旅人たちはここから鳥取の市街地付近を眺めることができたのかも。
ここで質問その2。 峠の登り口にあった道標には『小畑越え』という峠の名前だった。しかし、 中国自然歩道の案内板には『遠見峠』とある。まあ、複数の名前があるのは よくあることなのでよいとして・・・。 先ほども紹介した遠見山は『とうけんざん』と言う。でも峠は『とおみとうげ』でしょうか? |
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峠からいきなり細い道になる | よっしゃ、乗れるぞ |
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10時25分再スタート。期待していた下りだったがこれが乗れない。 登りのルートと違って道幅が狭い。しかも谷側に切れ落ちていて、一歩誤ると 谷底まで滑落だ。MTBを右手に持ってバランスを取りながら通過 (恐怖の場所の写真を取り損ねた)。
そういえば、出発時に山ボーイさんが「急坂やで〜」と言ってたのを
思い出す。このまま最後まで乗れなかったらMTBの意味がない。
が、『茂谷 1.1k・・・』の標識が現れた頃から道幅も広くなり、
茂谷の集落まで乗れ乗れになった!!やはりこうでなくっちゃね。
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下るほどに乗れ乗れになる | 茂谷の神社に到着 |
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目の前に茂谷の人家が見えて、左手には小畑上神社があった。10時55分。 案内板には創立不詳で、古名は妙見大明神だとある(このことは山ボーイさんからも 聞いていた)。 もとは現在地から東にある大座山にあったという。では、その大座山とは どこのことか?茂谷の集落から東方向を見ると、 まず目に入るのが遠見山だ。が、ここよりも758のピークの方がそそられる。 そこは茂谷の真東にあり、ピークも平らでそこそこ広かった記憶がある。 そこを掘り返せばなにか遺構が出てくるかも・・・。
その妙見宮は貞享元(1684)年に茂谷に降ろされ(とうぜん創立はそれ以前ということになる)明治に
小畑上神社と改称。小畑とは茂谷、奥野を含めた字だと思われる。氏子戸数は30戸とあるのも
当時の両方の戸数を言ったものだろう。例祭日には『茂谷の妙見相撲』と呼ばれる草相撲が行われるほど
にぎやかなお祭りだったようだ。
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この石灯籠がおもしろい | 神社の本殿 |
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昭和38年に建てられた鳥居からまっすぐに階段が延びている。その途中にある踊り場にある 石の灯籠がおもしろい。寄進者の名前が茂谷村の盛次友太郎となっているのだ。 三倉で見た盛田さん同様に平家の子孫だと思われる。
拝殿、本殿も外側からだけしか見ることが出来なかったが、さほど荒れていない感じを受けた。
後で思い出したのだが、昔、柿原の近くで出会ったおじさんが「この奥にある神社には平家の
甲冑などがあったはず・・・」と確かかどうかもわからないような言い方で言っていた。
盛次さんの名前といい、ひょっとしたらこの神社のことだったのかも・・・。
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茂谷と奥野を結ぶ道 | この建物を左へ |
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神社から降りてきたらおばさんがいた。ちょっとお話するが昔のことはよくわからないようだ。 奥野への道を尋ねると家の前からある小径を行くように言われる。走り始めると なるほど良い道だ。標高差無しで隣村まで行けるようになっている。 途中にはさくさんの墓石があって、夜などは歩きづらい道だ。(^_^;)
奥野のの入り口には石仏があり、地形図にはそこから点線のルートがある。
周辺を丹念に探してみたがそれらしい踏み跡もなく廃道のようだ。石仏の正面から
そのまま前進すると写真のような建家があり左に折れる。
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廃屋と夏草で道を失う | 自然歩道の標識と太神宮灯籠 |
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廃屋がいくつもあり夏草が生え茂り自然歩道がどこかわからなくなる。 廃屋周辺をうろうろしていて、畑の際に四等三角点を発見。 そのまま小径に出ると、そこには自然歩道の標識と太神宮灯籠があった。 やはり自然歩道は伊勢道であると確信をする。 さきほどの背丈以上の夏草ヤブを突っ切ればここに出たようだ。 民家があり、小型犬がMTBに驚いてかしきりに吠える。若い男性が出てきたので ちょっとお話をする。ここも数軒しか残っていないようだが、昔は20数軒、100人以上の 人たちがいたという。彼らは北海道に移住し、そこの地名も鳥取と名付けたそうだ。 (ネットで調べると鳥取の旧士族たちが明治17・18年の二度にわたって現在の釧路に開拓移住したとあった。 同様に一般人も移住したのだろう)
そういえば、茂谷のおばさんが灯籠に彫られていた盛次さんは現在は茂谷におらず、北海道に引っ越したと
言っていた(それは明治の話ではなさそうだったが)。縁者を頼って移住したのだろうか。
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奥野と佐崎を結ぶ旧峠 | そこにある石仏 |
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感じの良い青年と別れて先を急ぐ。舗装路でぐるっと回り込んで佐崎に行くのだが、 途中に小橋があって、そこにも自然歩道の標識があった。昔の峠道だ。 そこはパスして舗装路を登る。その途中にも小径があり(先ほどの橋からの道を登り切った付近) その上が峠だった。
峠の名前はわからないが奥野と佐崎を結んでいる古道だ。ここに石仏があるのは山ボーイさんから
聞いていたが、やはり実物を見ると感動だ。地蔵菩薩立像で胸元で合掌の姿。
『天保十四卯(1843)六月』『奥野村 庄右衛門』とある。
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県道と合流 | 佐崎神社 |
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広い県道と合流する。『津山智頭八東線』と呼ばれる県道だが、すぐ上で終点となっている。 名前からして山越えで智頭へむかい、最終的には津山まで行くはずの県道だ。 予算がなかったのか、山越えが困難だったのか、出来ていればずいぶんと便利になっていたかもしれない。 終点手前には佐崎神社があるのでそこで昼食にする。
祭神はともかく佐崎とは土師村唐櫃城が落城して城主の佐々木家の残党が移り住んだことから佐崎となったという。
その神社は村から見ると高台にあり、そこからの眺めはなかなかのものだ。
氏子の名前を見ると、茂谷、奥野とは違っていて集落ごとの特色が見れておもしろい。
この時点でお昼はちょっと過ぎており暑さで食欲はまったく無い。
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村内を走る | ここにも灯籠が |
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2車線の舗装県道をただ下るのはおもしろくないので村内の小道を下ってみる。 村人に会うことはなかったが、古い公民館横に木造の灯篭があった。 見ると、これも太神宮灯籠だ。それ以外にも石碑とかも高台に見えたが、そこに行く元気がない。 県道に出ることなく、そのまま旧道を下って県道と合流。柿原へ向かう。 |
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保木元神社(老婆城小畑古戦場跡) | 柿原の竹藪にある墓石群 |
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最後の訪問地の柿原は現在は廃村だ。道路右手に小畑婆ヶ城の『白南天』と『ねぶと石』伝説の案内があって、 看板裏のヤブの中に祠(保木元神社)があった。 そこには古い五輪塔が積み上げられている。 『老婆城小畑古戦場跡』と彫られた石柱があるのでそれらの墓石のようだ。 それにしても小畑婆ヶ城がどこにあったのかも気になる。
柿原の目的はここではない。とある場所を探すためにここを最終の訪問地にしたのだ。
MTBをデポして道路から歩きにくい靴で竹藪の中を徘徊する。多くの墓石があり、その奥へと進んでいくが、
とうとう発見できずだった。これ以上時間を掛けるわけにもいかず、あとは舗装路で
若桜へ帰る。
柿原を出たのが13時30分。楽勝で帰るつもりだったが好事魔多し。暑さでへろへろの上に 舗装路の照り返しはさらに体力を削り取る。くわえて久しぶりのMTBだったのでお尻が痛い。 29号線は走らずに、山沿いの集落を繋ぐ道路を行く。道沿いには手を伸ばせばすぐに届く位置に梨がある。 李下に冠をたださずのことわざ通りにここは止まらずに進むべし。 ほとんど倒れ込むように車の駐車場所まで戻った。暑さで頭がオーバーヒートしていたので 思うような写真も撮れなかったし、周辺の探索(正確には単なる見学だが)も出来なかった。 それでもなんとかレポートになるだけの見所はあった。 次回訪れるとしたら婆ヶ城とその祈願所であった清徳寺を巡る山行きをしてみたい。
今回の遠見峠の地図は
こちら(約200k)
でごらんください。 |