長野・佐中の三峠

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『大屋市場』、『但馬竹田』を参照していただくようお願いいたします。

2012.11.25.  日曜日  晴れ  気温  あったかい

今年の四月にTQFさんと タキタニの頭 というピークに登り、そこから表題の三峠を稜線沿いに歩きました。

そのとき気になったのが、

  • 長野(建屋)方向から、それぞれの峠に向かって現在も道が残っているのか?
  • 佐中へ向かって三つも峠が隣接してあるのは なぜか?
  • 生野の守蔵さんが言うように三つの峠は但馬西国霊場の巡礼路だったのか?
  • 稜線に良い道があったがなんの道だったのか?
    例によって誰も興味を持たない疑問に興味を持つのだった。 一人で歩くにはもったいないので、建屋のゆうすけくんとその親戚でもある作畑ガールの二人を誘う。
  • 斎神社前がスタート行ってきま〜す

    9時半、斎神社をスタート。 三つある峠のうち、まずは内山からの峠を目指す。内山にいた年配の人にここの峠の名前を聞くと『天神坂』という 思いもよらぬ名前を言われてびっくりしたのだが、それは佐中に降りた所にある菅原道真を祀った天神の祠に由来しているようだ。 「この先にある畑は『天神坂の畑』と呼んで、よう行ってたんやで」とも言っていた。
    ゲートを抜けた所にあった石仏そのお姿

    林道のゲートを過ぎた所に小さな祠があって、中には石仏があった。真新しいお花が添えられていることから お詣りはされているようだ。切れ長の目でちょっとほほえんでいる。両手で未開敷蓮華を持っている。

    彫られている文字をよく見るために前掛けをどけると驚くほどの虫がはい出てくる。 『右 さなか道』、『天保十四卯(1843)七月吉日』、『内山女講中』という文字が 読み取れる。

    林道終点からは不明瞭な道だこの激斜面を登ると峠だ

    林道の終点がその『天神坂の畑』と呼ばれている所だった。そこからは細い山道となるが、 鹿避けネットが現れる頃よりさらに道は不明瞭となる。 やがて目の前に壁のような斜面が現れるが、その上はもう峠だ。 昔は登りやすいようにジグザグに道があったのかも・・・。
    天神坂に到着。佐中へは下らずに境界尾根を右に行く

    斎神社から1時間ほどで天神坂に到着。この道が普通に存在していた頃なら集落からは40分ほどで登れただろ。 ちなみに写真にある林道はあの石仏のあった祠手前のゲート先から分岐している林道だ。 峠にある枯れた松の根元には前回見た石仏がある。国土地理院の地図にはこの峠だけが記載されており、 10年以上前からいつかは登ってみたいと思っていた峠です。
    粟鹿は電波塔が目印となるスリガ峯。須留ヶ峰とは違います

    ここから市境界の尾根を辿って次の峠(尾ノ上坂)を目指す。佐中側は植林で長野側は雑木。紅葉も 終わりの時期だがまだきれいだ。佐中側を覗いてみるとニチリンの材木積み出し場所がチラッと見えたりする。 長野側は内山の蕎麦屋の建物。はるか向こうにはなんと朝来山と粟鹿峰まで見えた。 三角点ピーク手前から正面にはスリガ峯が見えるのだった。
    尾ノ上坂に到着。ここから尾ノ上へ下る

    尾ノ上坂には11時16分到着。三つの峠にはそれぞれ石仏があるのでそれらを見るのも楽しみの一つだ。 ここには両手で宝珠を持った地蔵菩薩だ。『明治廿六巳(1893七月日)』『ヲノ上 松下仁兵ヱ』とある。 その尾ノ上側の道は明確だが、佐中側はシダに隠れて踏み跡は不明。だたし、この佐中側の斜面は昔は 草刈り場で、尾ノ上の人たちが牛のえさとして刈り取りに訪れていたのだった。

    続きの稜線を見ると前回もそうだったが明確な道がある。それを行けば次の峠に簡単にたどり着くが ここから一旦尾ノ上の集落へ降りる。

    これほど掘れた道は初めてだ炭焼き窯跡からは道は不明瞭となる

    峠から尾ノ上へは谷に下りるのではなく、しばらくは支尾根にある道を辿ることになる。この道が なんともすごい。掘り窪んだ道はこれまでも幾度か見たが、ここは徐々にその深さが増していき、 一番深い箇所では8〜10mぐらいあるだろうか。草刈りなどで頻繁に利用された頃は村総出で年に一度の道普請が あったという。手入れされるたびに徐々に深くなっていったのだろうか?

    支尾根から一気に谷へ降りていく。そこにあった 炭焼き窯跡を過ぎた頃から道は不明瞭になり、後は素直に谷を下っていけばよい。 里に近づくにつれて石垣のある段々の耕作地跡が現れる。尾ノ上のおばあさん(80才越え)に この峠道は『ウトロ(うとろ)』と言うのだと教えてもらったことがある。

    何の意味だろうと考えてみた。『ウト』とは狭い谷を表す。ロはどうやら漢字の口(くち)をカタカナと 認識してロ(ろ)と発音したと思える。このような口(くち)→ロ(ろ)と言い回す単語の存在は過去経験があるで 案外この解釈が正解かも。

    『ヲノ上 松下仁兵ヱ』さんのお宅

    峠にあった『ヲノ上 松下仁兵ヱ』さん。実は仁兵衛さんは三代続いた名前である。 石仏の仁兵衛さんは三代目の人らしい。尾ノ上にはそのお孫さんの一郎さんがご健在なので尋ねてみる。 まったくアポ無しだったのだが快く応対してくれて我々の愚問にも丁寧に答えてくれた。

    一郎さんは長らく佐中の進藤家に勤めていたので、当然通勤にはこの峠を利用していたのだそうだ。 しかし、単車を購入したのを期に八代峠(まだトンネルは出来ていない)を越えて佐中へ行くように なったという。こういう生々しい証言を聞くのがなんとも楽しい。お礼を言って最後の峠へ向かう。

    尾ノ上から10分も歩かないうちに石ヶ坪に到着。そこから舗装の林道を上っていく。 以前、近くの人に「なぜ、それぞれの集落から(三つも)佐中に峠があるんでしょうね?」と聞いたことがある。 その時にもらったのが明快な答え。「そら、便利やからや!!」

    佐中は新井に出るよりもはるかに建屋に行く方が便利だったようで、一郎さんも言っていたが 佐中と建屋(石ヶ坪・尾ノ上・内山)とは多くの婚姻例がある。

    獣避けのゲートを過ぎても舗装路は続く。右手に流れている小川の反対岸が旧の峠道のようだ。急な傾斜で林道は続き、 ほどなく堰堤に到着してここが終点となる。

    堰堤に着石仏の文字を解読する

    堰堤の横手にはひっそりと石仏と道標がある。登る方向からは後ろ側になるので、気を付けないと 見過ごしてしまう。年号の彫られていない道標には『右 やまみち 左 さなかみち』とある。 その隣にある地蔵菩薩が難問だった。

    ちょっとアゴを上げた表情は辻村ジュサブローの造る人形のような感じ。この光背にある文字をスラスラと 読めればたいしたもんだ。もちろん私はスラスラと・・・。(^_^;)

    佐中には但馬西国霊場24番の深高寺があり、この峠を越えて能座には25番の円通寺がある。 それを知っていればこの石仏にある『左 かんのん道』という文字の意味はすぐにわかる。 とうぜん前述の二つの峠も同様に巡礼の道としての役割も持っていたのだろう。 それにしても『為 父母』という文字も心に染みる。

    ポカポカ河原で食事薄暗い谷を登っていく

    時間は13時になろうとしているのでここの河原で食事にする。稜線上は風が吹き抜けて寒いはずなのでここの ポカポカ陽気はありがたい。食後、最後の峠を目指し、水利施設の横手より谷を進む。 道の形跡はほとんど失せているが地図を頼りに薄暗い谷を進む。
    紅葉のすばらしい石ヶ坪坂に到着

    谷を遡るにつれて旧の峠道の痕跡が現れてくる。峠が頭上に見え始めた頃、右手斜面に道が現れる。 いい道だ。13時45分峠に到着。そこにある石仏よりも、まず目に飛び込んできたのは鮮やかな紅葉だった。 三つの峠を歩き通した我々を出迎えてくれているようだ。 ここから佐中への道ははっきりと残っており、ここを下りきれば例の宝篋印塔のある地点になる。

    この峠にもおもしろい逸話がある。明治になって廃仏毀釈とともに修験道も禁止となったのだが、但馬はその信仰が深く、 多々良木にある行者山も明治13年に後山から行者像を勧請したほどだった。 そして、餅耕地もその例に漏れず明治34年生まれの朝日敏雄さん(餅耕地の語り部としてつとに有名)も青年時代に 後山への行を行っている。

    当時は一種の成人通過儀礼のような意味もあったのだろう。二十歳だったとして、行ったのは大正10年前後か。 餅耕地から出発した一行はこの石ヶ坪坂を越えて佐中へ向かったという。 そこから神子畑、一宮、波賀、千種、志引峠を越えるて岡山から後山奥の院へ向かったのだ。 敏雄さんも我々と同じ石仏を眺めつつこの峠を通過したのだろう。

    尾根に明確な道ずーっと続く

    本来ならこれで終了というところだが、最後の謎が残っている。 ここから稜線上に良い道が存在しているのだ。尾ノ上の一郎さんもそのことは知っていたが、 何の道なのかはわからないと言う。私の希望的予測では餅耕地まで続いているのでは?と、 勝手に想像するのだった。とにかく予想したルートを二人を引き連れて行ってみる。

    作畑ガールは防火帯ではないかと言うが、長年の経験からそういう感じには思えない。 もし餅耕地に通じる道なら別途地図にあるような巻き道が存在している可能性が大きい。 が、それらしき踏み跡はなかった。結局分岐になる『H』まで道は存在していた(徐々に薄くはなるが、 それより先にも続いているかも)。

    『H』からの激下り494からも激下り

    しかたなく『H』から激斜面を下ることに。つまづくと一気に転げ落ちるのは間違いなし。 下りきった『I』からは先ほどと同じような道があった。左にある谷もなんとか歩けそうだ。 等高線ではけっこう急だが、炭焼き窯などがあったはずなので案外楽に歩けるかも。

    494ピーク先から左右の尾根のどちらを下ろうか・・・。時間も押しているので 地図にある林道で下山する。

    『J』はなんかの施設跡林道歩きは長い〜

    すんなりと『J』まで来た。14時55分。電柱がここまで来ていてケーブルもそのままあるが 施設は撤去されていた。TVの共聴にしてはここまで林道が敷設されているというのも大げさ。 深く考える時間もないのでそそくさと下山開始。林道には地図に記載されていないいくつかの枝道もあり 林業に利用されているようだった。ゲートのある入り口には15時30分。 予定通りの時間だった。そのままたわいもない話をしながら斎神社へ。16時。

    他の地域の人にはまったく知られていない三つの峠たち。帰りに出会った石ヶ坪の家族に 話しかけたが、年配の人は知っていても何十年も行ったことがないと言い、若い世代はその存在すら 知らないふうだった。地元のゆうすけ君との会話で、小学生たちに体験登山で知ってもらうというのも いいねと案も出たが、実現されればおもしろい。

    今回の長野・佐中の三峠の地図は こちら(約220k) でごらんください。


    それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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