はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『智頭』、『郷原』を参照していただくようお願いいたします。 2012. 6.24. 日曜日 曇り時々晴れ 気温 暑い
自分のレポートを見ると 牛臥山〜海上山に登ったのはもう2年も 前の事になっていた。その時は単純に山登りとしてこの集落に訪れたのだが、周辺を歩いてみて この集落の特殊性がわかり、がぜん好奇心がわき起こってきたのだ。 そこでいつか再訪したいと考えており、それがようやく実現できた。 山間にあるこの集落は昭和41年に板井原隧道が出来るまでは、まさに陸の孤島状態だったと言えそうだ。 それは地形図を見るまでもなく前回の登山で訪れた際に実感出来た。たとえば 村内に車が通れる道が出来るまでは『六尺道』と呼ばれる細い道がメインストリートとして 存在しえた。
外部との連絡路は赤波川を下れば下板井原の集落だが、こことて用瀬へ行くには『宮の谷峠』を越えなければ
ならない。一番近いのは明治23年の道路改修記念碑のある智頭へダイレクトに降りる『古峠』。
さらに西野村へ通じる『西野越し』。この三つは2年前の登山の際に確認済みだ。
その後、地形図を見て用瀬の杉森への峠、八頭の大江への峠があるのがわかった。 この集落は峠を越えなければ外部との接触がかなわない世界なのだ。 そこで、残りの峠を探索しつつ、ぐるーっと上板井原集落を周回する尾根コースを歩いてみることにする。 とうぜんというか、WEBではそんなレポートも皆無だし、果たして無事に周回できるかどうかすら わからないがすごい楽しみだ。 |
分校跡前に止める | きれいな川 |
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何度か来たことのある上板井原に久しぶりに来た。集落の入り口にある駐車場ではなく、集落中央に位置する 分校跡の前に止める。昼頃にはここは満車になる。というのも、数戸しかないようなこの集落には『火間土』、『野土香』という 素敵なお店があるからだ。
8時40分スタート。赤波川の上流へ向かった歩く。その舗装路は林道八頭中央線と言い、
山越えで杉森に通じている。もちろんその舗装林道を行くのはそれでななく、途中から枝分かれする旧の峠道を
目指す。
右手奥に小さな水車小屋も見て、炭焼きの体験施設を過ぎると、そこがターニングポイントだ (別途地図『A』)。 古い地形図では601ピークのちょい横にある峠まで道が描かれていたが、現在の地形図では 途中までしか道が描かれていないのが不安の種。 |
鉄塔を過ぎて | 沢の横手を登る |
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登り始めは簡易舗装。中国電力の送電鉄塔が現れる。そこからは未舗装となり写真のような ドンツキの場所に出る(別途地図『B』)。正面は水量はさほどない沢だった。峠はその沢の上のはず。 ちなみにそのまま道なりに左に行くとすぐに行き止まりだった。 やはり沢を行かなければならないようだ。
昔はちゃんとした道があったようだが、今は獣の踏み跡をたどるしかない。
すぐに水は枯れて広い植林の斜面となり、周辺を見ると炭焼き窯跡やら桑畑の跡もある。
人の出入りのあった証拠だ。
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峠はその先 | 石仏がありました |
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峠は目の前で、その鞍部に何か見えないかと目を凝らすがなにもなかった。 峠には9時10分着(別途地図『C』)。左手に桜の木があり、その横手がくぼ地になっている。 その中になにやら石が二つ転がっていた。起こしてみると石仏だ。 本体と台座とが離れて転がっていた。 丸彫りの地蔵菩薩だが頭部が無い。丸彫りの石仏は首の部分を叩けば簡単に 首がもげるので、明治の廃仏毀釈のときには多くの犠牲者?を出している。 丸い台座には苔が分厚く張り付いていてそれをはがせばひょっとしたら文字もあったかも。
とりあえず元通りにして、今日の山行きの安全をお願いする。
石仏もあったことからやはりここは杉森へ抜ける峠だったわけだ。
里に下りてから聞いたところ『杉森越し』と言うそうだ。
その杉森方向にも道はあったのを確認して、いよいよ尾根歩き開始。
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いい感じ | 道路に降りました |
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ここんとこ、足が上がらないというか、身体が重いというか、なかなか思うように前に進まない。 汗びっしょりになりながら用瀬と智頭の境界尾根を行く。大きなピークに到達すると すぐに左方向に下っていき、林道八頭中央線に再度立つ(別途地図『D』)。9時35分。ここを車で下っていけば杉森へ行けるのだが、 通行止めの看板がある。便利な世の中になっても道路が崩れればなんのことはない。杉森への一番の近道は 結局さきほどの峠ということになる。人間の足が一番確かということか。 619ピークには10時ジャスト。668ピークには10時22分。ここでおやつ休憩。 ここまでの尾根は問題なく歩ける。ということはこれ以降もさほどの難コースではなさそうだ。 問題はこれから登る758.8mのピークへの急斜面。私の足では前半の難所といえる。
そろそろその急斜面と思うころ地面にカメラのレンズキャップが落ちているのを発見。
なんで、こんなところに・・・?と思っているとその先に伸縮ポールが立てかけてあった(別途地図『E』)。
この時点では用途は不明だが、後に目的とかもわかる。
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このポールは? | 三等三角点のピーク |
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急な斜面を登りながら、ときどき後ろを振り返ると智頭の篭山、板井原の海上山などが見える。 ちょっとヤブっぽい箇所もあって、這うようにしながらクリアーしていく。 三角点はちょっと奥まった所にあってそこだけ小さな空間になっていた。 三等三角点、点名『朽谷』、標高758.8m。10時47分。 点名は『朽谷』となっているが、里称は不明。だが、ここは用瀬と智頭と八頭の三町境界になるので 三国山などと名づけられていても不思議ではない。ここから進路を南に変えて次なる峠を目指す。 広い尾根なので方向を見誤るととんでもない所へ下ってしまいそうだ。 下るに連れて尾根は細くなり道迷いの心配はなくなる。 この辺りにも前述のポールのたぐいが多くある。その一つを見てだいたいのことがわかった。
これらは山階鳥類研究所の鳥類標識調査なるもののようだ。しかるべき許可を得て
かすみ網でとらえた鳥に足環を付けて生態を調べているのだろう。
(ポールはそのためのもの?)
二つ目の峠は明確な鞍部では無いので通り過ぎないよう注意が必要だ。が、 実際はその必要はなかった。そこには小屋があったからだ。11時10分着(別途地図『G』)。
鳥類調査の小屋なのは間違いない。峠に小屋を建てて前線基地としているようだ。
その小屋の周辺を見てみたが、石仏などはなかったが、この小屋の横手から木製階段の道が
智頭農林の実習施設方向へ下っていた。下山後に『火間土』のおじいさんから聞いた話では
ここにも石仏があるそうだが、見落としたのか??
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地図の『H』 | 歩きよい尾根 |
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『大江越し』の峠から急斜面をよじ登ったピークは三叉路になっていて、左(東方向)へ行くと 綾木峠、右(南方向)を行くと、754ピークを経て牛臥山・海上山登山道のBコースと 合流する。下り基調で快適に進んでいくと中国電力の鉄塔がある。
時間も11時45分なのでここで食事とする。前半スローペースだったがお昼までにここまで来れたので
安心だ。鉄塔からは東方向の鳴滝山、東仙が見える。無線をしてみたが空振り。久しぶりにオカリナを吹く。
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中電の鉄塔で食事 | 754ピークへの急登り |
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鉄塔を出発する。鉄塔は尾根の低い位置にあるので、ここからは754ピークへ向かって 登り基調となる。さきほどの鉄塔の巡視路として使われているためか道はすこぶる良い。 ただ、754への登りは急で、へばってきた足にはこたえた。 |
展望広場の標識がある鉄塔 | 沖の山も見える |
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754ピークはまだBコースではないが、『板井原』の標識と『754m三角点』という標識が あった。ただ、このピークには三角点は設置されていないのでこれは間違いだ。 その先の鉄塔には『展望広場』(別途地図『J』)とあって、海上山とその東にある最高ピークなどが見える。
林道への下山分岐も過ぎていよいよBコース突入。あまり見所もないだろうと思っていたら、 ここから雑木の尾根となって疲れた身体が癒される。
藤見平(別途地図『M』)という小ピークからは鳥取の市街が見えるらしい。あいにくの曇天だったが、 確かにそちら方向に展望が開けていた。周囲はあいかわらずのミズナラ、ブナの雑木で 道も公園の遊歩道のよう。MTBなら極楽のトラックだ。
逆コースで牛臥山・海上山を歩いて、さらにこの尾根まで足を延ばすのはけっこうハードだが ここだけのんびりと歩くのも良いかも。 |
『西野越し』に着きました | 地蔵さんに無事のお礼 |
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結局誰にも出会うことなく峠に降り立つ。13時17分。『西野越し』の峠から板井原側は谷沿いの細いトラック。 対して西野側はダブルトラックの林道だ。旧の峠道はどんなふうだったんだろう? 『火間土』のおじいさんが言うには、西野側の斜面にはスキー場もあったらしい。
このレポートの冒頭で板井原は陸の孤島などと書いてしまったが、よく考えてみるとこの集落から鳥取、八頭、智頭など
あらゆる方向に道(峠)があったわけだ。考えようではこれほど便利な場所はないかもしれない。
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『西野越し』から谷を下る | 林道に出る手前にある滝 |
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細い峠道(巡視路と兼用)を下っていくとまもなく林道が見えてきた。この出口付近には小さな滝もある。 岩盤には削岩機で明けたような小さな穴が十数個あった。この岩盤を崩してどうするつもりだったのか? そういえば今回のルートで見慣れない石をいくつか見た。岩石には詳しくないが、なにやら鉱物を含んでいそうな感じ。 帰ってから調べてみると、この板井原を含めて周辺にはマンガン鉱山があったらしい。 |
野土香で聞き取り | 火間土でもお世話になりました |
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駐車ポイントには14時。ドロドロだったので着替えて野土香に行ってみる。お昼を過ぎているのでお客は一人だけ。 アイスコーヒーを頼んで、この辺の昔のことを知っている人がいないか聞いてみると、火間土のおじいさんに 電話を掛けてくれた。そっか、あそこも地元の人やったんや。 電話越しだと伝言ゲームのようでまどろっこしいので直接お話を聞きにうかがうことに。
幸いに?お客がいなくてお店でお話を伺うことが出来た。峠の名前とかもその時に教えてもらったのだが、
おばあさんが「ごりんさんをお見せしたら?」と言う。瞬時に五輪塔のことだとわかったが、何の五輪塔だろう。
店の裏手に回り込んでそれを見せてもらう。
確かに2基の五輪塔もあったが、メインはその横にある宝篋印塔だった。おじいさんの話によると、 それは安徳天皇の墓だという。それを聞き、ここが平家の落人伝説の村だったことを思い出す。 もちろん安徳天皇は壇ノ浦で海底に没してしまったのだが、落人がその霊を弔うために墓石を 造ったとしたらなんともロマンな伝説だ。 しかも、 おじいさんの話ではこの墓石は瀬戸内海の犬島産の石で鳥大の先生が何度か調べに来たらしい。 帰って調べてみると確かに犬島は古くから花崗岩の産地で大阪城の築城にも使われたのだ。 ここ板井原は昔火事にあって倉などにあった古いもの(古文書とか遺物?)が無くなってしまったと 嘆いておられた。 今回も意外な展開を遂げた山行きでした・・・。
今回の上板井原集落周回の地図は
こちら(約200k)
でごらんください。 |