旗切越え

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『神子畑』、『長谷』を参照していただくようお願いいたします。

2012. 5. 5.  日曜日  曇り  気温  ふつう

神河の川上は平家の落人伝説のある集落である。ここの真北にある旗切山(四等三角点、標高914.8m) に訪れたのは2003年のことだった。山名からも落人の伝説がうかがえる。 そのピークのわずか西には今は無い長沢(ナガソウ)という 集落と川上を結んでいた旗切越えという峠がある。

長沢(ナガソウ)の集落跡はずいぶんと昔にMTBで走っていて通過したことがあるが、そのときは大河内町による 廃集落を説明する看板があったように記憶している(今もあるかも)。周辺を丹念に調べれば墓石なども確認できたかもしれない。 その集落からさらにもう一つの峠を越すと千町の集落だ。

話は逸れたが、その旗切越えの峠には一体の石仏がある。2003年に訪れた時に写真も撮したのだが 、後で見ても薄暗くて頭部の雰囲気から馬頭観音と思いこんでいた。ある時その写真を改めて眺めてみるとちょっと違うような 気がして、それ以来気になっていた。今日はちょっと時間が空いたので その石仏だけを見るために峠へ行ってみる。

林道の曲がり角から入るこんなプレートもあった

しばらく来ていなかったが川上の集落にはバイパス道路が出来ていて、集落内を通過することなく砥峰高原へ 行けるようになっていた。その道路の途中から旧峠への入り口がある。そこのスペースに 駐車をして出発。普段着とスニーカーのままだが、念のためにおやつと水の入ったリュックは担ぐ。

旗切山の南山腹を回り込む林道が出来ているが、それを辿ると遠回りになるので旧道を探す。 入り口はすぐにわかったが崩落部分があるので林道の曲がり角から斜面をよじ登る。 小さな耕作地跡を過ぎると荒れた河原になる。

荒れた河原で踏み跡は皆無。地形図では左へ

地形図を見ると正面のガレ谷ではなくて左の支谷に点線がある。そちらへ行ってみると 道は無いような感じだ。でも二つの谷に挟まれた支尾根を登れば峠道と 合流できそうだ。
峠道に出た・・・が?長谷ダム湖が見えた

支尾根は急斜面だったが問題なく歩ける。途中で何度か小憩を繰り返しながらポン!と 飛び出したのがくだんの峠道。ところが地形図のルートとは違って東の谷から登ってきていた。 地形図にある西の谷をのぞき込んでも踏み跡すらなかった。 帰りは当然この峠道を下ってみることにする。
謎の文字が・・・まもなく峠

ここから峠まではすぐの距離だが、その途中には不思議な岩があった。 数字が彫り込まれているのだ。普通に歩いていたらまず見逃すだろうが、 なにかおもしろいものはないかと、眼を皿にしながら登っているおかげ ?で見つけてしまった。 数字の意味はまったく不明だが、山で働く人のなんらかの符丁なのだろう。 岩盤の右側、苔の生えている部分にも文字があるかもしれない。
峠の祠に再会2003年の時の祠

峠に到着。2003年のときと同じく林道が横切っている。その路面脇に石を積み上げた 祠がある。これも帰宅後にわかったのだが、当時崩れかけて中の石仏も見づらかった祠が きれいに補修されているのだ。川上の人なのか、あるいはナガソウで生活していた人たちなのか、 この石仏が人々から忘れられずにいたことがちょっとうれしくなる。
改めて眺めてみる頭に奇妙な模様

こうやって見ると、ごく普通の地蔵菩薩のように見える。なぜ馬頭と間違ったのか? さらによく見ると、ちょっと変なところもある。持物もなにかビンのようなものだし、 頭には化仏なのか文字なのかわからない突起がある。 どちらにしても急な峠道の安全を願って造られた石仏にまちがいない。

基台には五名ほどの世話人の名前が彫られていた。これらの名前を川上で尋ねれば いろいろとわかるかもしれない。というのも、基台の横手には『昭和二年春 建之』と あったからだ(現在住んでいる人たちの親の代だと思える)。さらに反対側には『石工 ○クノ○賀』ともあった。

峠道が寸断

今回の目的は達成したので下山にかかる。とりあえず『C』まで戻り、そこから東に伸びる 峠道を進んでみる。ところが地図の『E』付近で2箇所の崩落があった。その2箇所目で 引き返すことにする。大きく崩れていて、無理すれば行けそうだが単独のときは無理は禁物と自分に言い聞かせる。

川上の古老から聞いた話では、この峠道の下りには『ゴラ落とし』と呼ばれる難所があるという。 ひょっとしたらこの地点付近かも。『ゴラ』とは岩地を意味する『ゴウラ』あるいは『ゴウロ』から 来るものだろう。落石によって炭を積んだ牛馬が落ちないようにと慎重に降りたに違いない。 (千町、ナガソウからの炭を運んでいたらしい)

こんな峠道の途中にあるとは!

さらに驚くことに、 その崩落地点には坑口がぱっくりと開けているのだ。いったいなんの鉱山なのだろうか? 橋元先生によると川上集落にある川上鉱山(寺谷鉱山)の一部であろうということだ。 いただいたメールによると、「大正初期にかなりの盛況を見せ、戦後の再開発後、昭和35年頃に閉山された (開坑は永享年間以前)。」ということだ。

たしかに入り口付近に水没しているのはパイプのようなものなので近代まで使われていたと想像できる。 亀岡にある『たんくら』という鉱石ショップの店長さんによると川上鉱山は銅を産出していたということだ。

崩落地点でビビった結果、 結局元のルートで下山した。降りてから、やっぱり崩落地点をクリアーして峠道を踏破すればよかったかと 少し思ったりする。9年ぶりで石仏にも再会できて、短時間だったが有意義な散歩だった。

今回の旗切越えの地図は こちら(約70k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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