シビレ山(高泉寺道)

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『淡河』を参照していただくようお願いいたします。

2011. 3. 6.  日曜日  曇り後小雨  気温 ふつう

そもそもは、最近入手した『丹生古道之図』(昭和51年、杜山悠氏製作)なる地図に 『高泉寺跡』という記述があったことによる。従来、シビレ山に北から登る時は勝尾不動滝からある 滝道を利用するのがほとんどだと思う。しかし、この地図によると高泉寺跡から『高泉寺道』という ルートが丹生山の明要寺まで続いているのだった。今回はこのルートを探りながらシビレ山まで 行ってみようと思う。

当然ながらスタート地点は永春寺となる。墓地に数台駐車できるスペースがあるので その許可をもらいにお寺を訪ねることに(もちろん情報収集も兼ねて)。 するとおもしろい話を伺うことが出来た。

丹生古道之図の一部永春寺の薬師堂

この永春寺、元は高泉寺の里坊で、高泉寺が廃寺になったとき、その薬師堂を移して本堂とした ということだ。現在の本堂は昭和になってから新たに 建てられているので、この薬師堂は今は檀家の位牌などが納められているという。
左の棚中央の棚右の棚

この薬師堂の他にも小さなお堂があり、そこには近隣にあった『毘沙門堂』、『十王堂』、 『薬師堂』、『阿弥陀堂』などにあった仏像を合祀しているのだった(大正10年)。 これがなかなかのお宝ばかりだった。 じっくりと見る時間もなく、写真を撮っただけだったのが残念だ。右の棚にある 朽ちかけた木造仏などは平安のものとか・・・。十王の石仏などもじっくり見たかったなあ。 お礼を言って9時20分スタート。
民家の脇からこの道に出る墓地を過ぎると地道となる

『丹生古道之図』ではわかりにくいが、2.5万の地形図と照らし合わせると進むべきルートがわかる。 その入り口付近で出会ったおじさんと会話をする。ちなみに「シビレ山を知っていますか?」と質問すると まったく知らないと言う(永春寺のご住職も知らないらしい)。その位置からして山田集落の山だから 自分たちのあずかり知らない山だということだ。

民家の敷地内を通るような道なので間違ったかなと思ったがすぐに簡易舗装の細い道と合流する。 すぐに墓地となって、そこから地道となるも明確で良い道だ。

この坂を越えると寺跡となる

墓地の後にすぐ池があり、さらに進むと2つ目の池となる。その先にある坂を越えると そこが高泉寺跡だ。左手に見える石垣跡は畑地か水田と思える。それを維持するための ため池跡も2つほど確認。
ここは寺の墓地跡かな?

道は左から右にS字を描くように回り込んでそのまま山へ向かおうとしている。 何も発見できないまま山に向かうのはシャクなので一番怪しいと思われる 地図の『A』地点へ入り込んでみる。すると予想通りにそこには 墓石が散乱していた。10時ジャスト。

1基だけ五輪塔がスクッと立っていたが、他の卵塔などはすべて倒れている。 かろうじて読みとれるのは『當寺四世大僧都・・・』などの文字。 別の石塔の基台には『享和二(1802)・・・』これが今日見た唯一の年号。 もっと時間をかけて周辺を探せばいろいろあると思うが、なにせ墓石ばかりなので、 なんか墓地を荒らしているような気分になってしまいそう。

とにかく敷地が広い

もう一度Uターンするように他の平坦地も歩いてみる。軽く周辺を見る程度だったので 次回来ることがあればもうちょっと時間をかけたい。

永春寺で見せてもらった美嚢郡誌には『淡河村下村本坂ノ高地ニ在リテ四ケ院ヲ包括シタル名刹ナリシガ、 享保七(1722)年十月十五日出火シテ一院ノミ残存セシガ、領主有馬氏九州久留米ヘ国替トナルヤ漸次荒廃シ無住職トナル。・・・』 とある。この項では明治九年に前述の薬師堂を里に下ろして廃寺と記されているが、別のページには明治四年とあった。

郡誌には開基の年が記載されていない。この高泉寺道の終点である丹生山の明要寺もまた開基の年が明確ではない。 しかし、神戸の福原を都にした平清盛が丹生山を京都比叡山に見立てて明要寺への参拝道を整備したという故事から、 この高泉寺もその影響を受けていたと思える。あるいは明要寺の末寺だった可能性の方が大きい。 『丹生古道之図』にある『平氏祈祷所』という文字がそれを表しているように思える。

ほとんど平坦な道炭焼き窯跡もある

どのようなルートでシビレ方向に向かうのかまったく予想できていないが、とりあえず目の前にある 道を進むのみ。その道は明確でほとんど平坦だ。方向的には勝尾不動滝のある谷の方向へ向かっている。
何が祀られていたのだろうそこから進行方向を見る

地図の『B』地点に 小さな石の祠があった。10時25分。中身はからっぽで何が祀られていたのか不明。念のために祠の外側を 見るが、何にも文字はなかった。この祠の奥が展望地だった。向こうに見えるのはこれから行くであろう 19鉄塔だ。ここまでは道の状態もよかったが、これ以降はシダの勢いが強くて進むのに苦労する箇所も いくつかある。
ええ〜っ!道標だ左丹生山道

それらの薮をかいくぐるように進むと、地図の『C』でさらに驚きの発見。それは写真のような直方体の道標だった。 歩いている道の右上にあったので薮に気を取られて危うく見逃すところだった。 それには正面だけに文字が彫られており『左 丹生山道』とある。今歩いている道が間違いなく明要寺への 参道なのを示している証拠だ。
巡視路と合流

地図の『D』地点で関電の巡視路と合流する。11時。私は黄色いコースで登ってきたわけだが、振り返って見ても そこが道だとはわかりにくい。つまりここから高泉寺跡へ下るのは(初めての場合)むずかしいと言えるが 唯一『火の用心』マークが目印になる。

ここから『くるし坂』方向に進む。途中に分岐があって、右に進めば19鉄塔なので展望と休憩を兼ねて そちらへ行ってみる。鉄塔から眼下を眺めると不動滝からのルートである、おなじみの砂地の尾根、 そいて徳島道などが見える。さらには雄岡山、雌岡山のかわいい二つのピーク。 霞がひどいのでそれより遠望は効かず。

ハイキング道に合流そこにある痛々しい道標

分岐に戻って左を進むと急下りを経てハイキング道と合流する。11時25分。 ここにも石の道標があるのだが、それはそれはひどい状態だ。文字の彫られた表面を 真っ赤なペンキで塗られているのだった。 巡視路の途中にも木の幹に赤ペンキの矢印があった。たぶん同一人物の仕業だろう。 数年前と比べると色は褪せてきているが、なんとも気分が悪い。 日頃から赤テープのことを言っているが、罪の大小は違っても同じことだ。

『右 淡河下村 左 戸田三木』右、つまり私の登ってきた永春寺のある字下村のこと。 左、これはくるし坂から戸田へ下る道のこと。昔はその参道が表参道だったという。 横手にある施主の文字は読みとれなかった。

くるし坂に立つ

道標分岐から見える所にくるし坂がある。そこには関電の『火の用心』標識があり、それを背にして立ってみる。 左手は先ほどあった赤い道標の分岐、さらに奥へは丹生山へ続く参道となる。正面は関電の巡視路でシビレ山への登路となる。右に 見えるのは滝道への下り道と、平坦に続くのは戸田からの古い参道だ。
シビレ山鉄塔20からつくはら湖を見る

くるし坂からシビレ山への斜面が今日一番きつい登りだ。登り切って右手がシビレ山の山頂となる。 11時37分、標高465m、三角点無し。昔は展望がよかったそうだが現在はごらんのとおりなので 、その先にある鉄塔20へ行ってみる。

そこもたいした展望は無いのだが明るいしちょうどお昼なので昼食を摂る。 ここから見えるつくはら湖の水位は驚くほど低くなっていた。そして 12時20分再スタート。向かうのは丹生山だ。

古代祭祀跡ってほんとにそう?

シビレ山からすぐの所に『古代祭祀跡』がある。昔は兵庫登山会の大きな看板があったのだが、 現在は朽ちかけたボロ板がぶら下がっている。それがなければ誰もここが 祭祀跡などと思わないだろう。ここが本物かどうか、県の遺跡資料にも載っていないので限りなく黒に近い灰色だ。 せめて岩が整然と並んでいればねえ・・・。
地図『I』の分岐

途中に三角点ピーク(標高512.8m)の朝日山があるが迂回路でパス。その迂回路近くで単独男性とすれ違う。 この頃から急激に空模様が悪くなる。 地図の『I』の分岐には12時40分。 右を行けば丹生山だが雨具を用意していなかったので思案の上で左を選択。 ほんとは丹生山に立ち寄ってから淡河へ下山するつもりだった。

この分岐付近には舟形の石仏(頭部だけ)と『従寺七丁』と彫られた丁石があるのだが、 実はこの次にある丁石がおもしろいのだ!!

実際は文字は裏側であったため誰も気づかなかった

それは、いつの頃だかわからないが炭焼き窯の石材として転用されてしまっているのだった。 この丁石の発見者は私が時々見ている niuyamada 氏で、そのブログで発見の詳しい経緯を記録している。

先ほどの丁石は『七丁』だったがこちらは『従寺八丁』で、『施主 坂本玄治』とある。 名字があるということはひょっとして明治?ちなみに七丁は坂本惣兵□とある。 窯の内側を向いた部分は黒く焦げているのが時代を超えて生々しさを出している。

地図『K』にある清浄水その上にある石仏

炭焼き丁石の先には今度は『清浄水』という小さな標石。その横手が窪んでいるので昔は 参拝者の水場だっただろう。現在は全く乾いていてほんとに水が湧いていたのかと 疑うほどだ。ふと上を見ると、石仏があった。斜面をよじ登って近くまで行く。 全体を苔で覆われており何の仏かわからないが、じっとここから参拝の信者、そして今はハイカーを 見ているようだった。

『E』の分岐まで戻ってきた。帰路の選択はいくつかある。一番確かなのはくるし坂から滝道で不動滝まで下るルート。 あるいは雨が近いので往路の高泉寺跡をそのままピストンで下ること。 しかし地形図を見て、369.0mの三角点を通過する点線ルートを歩いてみようと思い立つ。

『D』の高泉寺跡ルート分岐を過ぎて鉄塔18へ。13時25分。そこから『L』までは巡視路なので 道は明確。その巡視路から離れて目の前のピークを越えなければならない。 わずかにある踏み跡を頼りにピークに立つと、あーら不思議、なんとも良い道が続いている。

ピークから良い道が・・・『M』から『N』へ掛けては赤土のザレ場

細いが古い鉈跡もあって快適に下れて下りたった所はこの付近にはよくあるザレ地。したがって 道は無くてもスムースに歩ける。『N』の分岐はわかりにくいが無事に発見。 結果から言うと、この分岐から左折して369.0mの点名『下村』を経ずに、正面に続く 点線ルートを行く方がよかったかも。
お約束のシダヤブ三角点周辺

『N』からは急に薮っぽくなり、そのうち写真のようなシダヤブとなる。覚悟はしていたので 突き進む。点名『下村』はピークとは言えない尾根のなんでもない場所にある。14時ジャスト。 そして、三角点脇の木の枝にプレートがぶら下がっており、こんな場所にも来ているヒマ人がいるんだと驚く。
予定では白矢印を行くつもり

三角点からもヤブは続くが一カ所見晴らしの良い場所に出て、これから向かう方向が しっかりと確認出来た。正面に見えるまっすぐに延びたザレ尾根の先端まで行けば 地形図のルート通りだ。しかし・・・、雨は降り始めるし、ヤブがひどくて 黄色のルートで池に下りる。
ヤブがひどくて池に下りる谷は歩きよかった

尾根より谷にほうが歩きよかった。やがて高泉寺跡コースと合流する。 途中からショートカットして畑地を抜けて永春寺の駐車場に出た。14時40分。 ご住職にお礼を言って帰路につく。
淡河城跡に寄ってみるこんな絵図が掲げられている

まっすぐには帰らずに淡河道の駅の裏手にある淡河城跡に立ち寄る。河岸段丘を自然の要害とした 戦国時代の城だが、現在は稲荷社となっている。その本殿前に『淡河合戦図』という淡河町の下田さんという方が 書いた絵地図がある。これに丹生寺とか高泉寺、勝尾滝などが往時を思わせるように描かれているのだ。

今日一日でいろんなことを見聞きして知ることが出来た。やはり山はおもしろい。 最後に、このレポートの一番最初にある『丹生古道之図』に描かれた『鷹尾山(369)』だが、 ルートから考えると私の地図の『あ』になる。しかし標高から考えると点名下村の『O』になる。

また、この古地図を書いた杜山悠氏の別の地図には『芝山』と書かれていたりしてさらに ややこしい。 また鷹尾とは義経一行を一ノ谷へ道案内した鷹尾一党の名字でもあり、この山域の東にある はらい川沿いには鷹尾鉱山跡という所もある。

今回のシビレ山(高泉寺道)の地図は こちら(約160k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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