はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『氷ノ山』を参照していただくようお願いいたします。 2011. 7.23. 土曜日 晴れ 気温 あづ〜い
この山は 2005年の9月 に登っています。そのときは『中瀬金山四百年フェスタ』という催し物があったので、それとの合わせ技で そそくさと頂上ピストンだけで終わってしまいました。
その後、この山を周回するなら鹿倉の集落へ降りるルートを歩いてみたいという思うようになる。
さらにNさんと言う方から山中に怪しげな石積みがあると私の掲示板に写真を貼り付けてくれた。
今回はその2点を確かめに登ってみたい。熊が出るというのでTQFさんに助け船をお願いする。
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体育館の広場を拝借する | 抜け道で三柱神社へ |
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まずは下山地の鹿倉へ車を回す。鹿倉へは道路そのものがないので、その入り口にあたる鹿倉口周辺をうろついてみる。 と、葛畑浄化センター(浄水施設)があったので、その入り口に邪魔にならないよう駐車。もう1台で登山口のある中瀬に 向かう。中瀬には(道路からも見える)体育館があって、そこの広場がスタート地点にうってつけ。 誰もいなかったのでことわりが言えなかったが9時半スタート。 道路に戻らなくても駐車ポイントの後ろから細い道がある。それで金昌寺の前を通過して三柱神社の参道に出られた。 |
三柱神社右手の小径を登る | 延々と続く石垣 |
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そのまま三柱神社の横手にある小径を登り始める。なんの標識もないがこれが登山道だ。 帰宅して三柱の三体の神さまは誰だったのか気になった。ひょっとして鉱山に関係する神さま だったりして・・・。 時間はあるのだから三柱神社をお詣りしたらよかったと後悔。 すぐに砂防ダムがあるので右巻きでクリアーするが、そこは金昌寺の墓地だった。 つまり金昌寺からも登れたというわけだ。ここからいよいよ谷を詰めることになる。 とにかくヤブがあろうが、道が一瞬無くなったように見えようが、一心不乱に谷をトレースすれば良い。
谷のちょっと広くなった箇所には必ずと言って良いほど石垣で保護された平坦地がある。
TQFさんは隠し田のたぐいでは無いかと言う。その谷の中央を流れる水路の両側は石垣で護岸されている。
そのためか今なお谷は荒れていない。昔の人はすごいなあと改めて思う。10時07分、別途地図の『B』地点に到着。
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水平道にある石の橋を渡る | 山腹を巻く水平道を西へ |
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『B』地点には明確な水平道がある。それは左右に延びている。 右へ行けば吉井集落の裏山にあった広大な桑畑跡に出ると思われる(たぶん)。 宝引山には左を行くのだが、5〜6分ほど気持ちの良い水平道を行けば 不思議な場所に出合うのだった。
2005年にもあったはずだがそのときは気が付かず、Nさんから教えてもらって今日初めて見た。 一人で抱えるには難儀しそうな大きさの石が各10個づつ直線に並べられており、それが4列ある。 これがいったい何なのか この時点ではまったく想像もつかない。この石列の裏手にはこんもりとして平らなピークがあるので、 そこにも何かあったかも。それらと一緒に何かの祭事に使われたものか?
この不思議な石列のある『C』地点は2005年のレポートにある写真でもわかるように、
先ほどの水平道を含めて4つの道が交差しているポイントでもある。
前回どおりに直登りのコース(これが通常の登山道)で登ろうとすると、TQFさんは
地形図にある点線ルート(これも水平道)を行ってみようと言う。
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石垣でしっかり造られた道 | 『D』地点にはいくつかの坑口 | まもなく谷と合う |
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この道は行き止まりと聞いていたので自分の中では今回のルートの対象外になっていた。 TQFさんから言われて、そういう寄り道がおもしろいのだということ(やまあその山行きではそれを常に思って歩く)にハタと気が付く。 変な既成概念にとらわれているとおもしろい発見などは無い。 と言っているうちからこの道のすごさに驚かされる。 単なるソマ道だと思っていたら、石垣でがっちりと補強された道だということがわかる。 しかも『C』地点に向かって緩やかな下りとなっている(ほとんど平行だが)。
ちょうど点線が宝引山頂へ向かう『D』地点まで来ると驚きの発見があった。
それは古い坑口が周辺にあるのだ。金が採れたという中瀬鉱山はこの山の川向こうなので、
まさかこんな所に坑口があるとは正直思ってもいなかった。地形図では水平道はここまでだが、
実際はさらに続いているので終点まで行ってみよう。
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谷で顔を洗う | 激登りをクリアーして登山道と合流 |
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『E』地点、つまり谷と合流する。水平道はこの谷の手前で消失していた。 この谷(洞ヶ谷)にある流れも石垣で補強されていた。谷川はナメ状の岩盤になっていて その水で顔を洗う。谷の奥を見てみると幅のあるしっかりとした道があるようだ。 つまり谷の奥にも坑口があるかもしれない。 『D』か『C』まで戻って登山ルートに戻るのかと思ったら、TQFさんはここからダイレクトに 激斜面をよじ登ると言う。まあ、予想はついていましたが・・・。 水平道で思い出した。山から材木を運び降ろすことを『引山(ひきやま)』と言うらしい。 ならば、この山は材木ならぬ鉱石(この場合金?)を降ろすから宝引山となったのか?! いつもながら冴えている推理(妄想とも言う)だ。
そうこうしていると激斜面の登りもクリアーして登山道とも合流できました。
『F』地点にはちょうど11時。二人ともへろへろ〜。ちょっとおやつを食べて再出発。
標高720m付近で東へ下る道発見。どこに下っているのだろうか?
標高750m付近で以前も見たカミナリに打たれて黒こげの木と再会。
そして頂上手前の平坦地に出て驚いた。
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ほとんど同じ場所を撮しました。たった6年でこうなる? |
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熊笹がびっしりと地面を覆い尽くしていたのに、今はまったくそれらは無くなっている。 いったいいつから?これも温暖化のためなのだろうか?ちょっと怖い感じすらする。 |
ラジオゾンデ? | 熊鈴 |
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熊笹がなくなったおかげでおもしろいものを発見。一つはラジオゾンデ?の残骸。 昔見たものは発泡スチロールの箱に入っていたが、これはラムネ瓶(青い透明のプラスチック製)の ようなものに入っていて、回路そのものは安っぽい感じがする。 もう一つは誰が落としたのか熊鈴だった。落としたハイカーはさぞかしくまった(困った)ことだろう。 |
山頂(奥が三角点)もツルツルリン | 三等三角点です |
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頂上には11時40分。さっそく食事にする。食後に無線でOAPさんを呼んでみるも応答無し。ただ、 TQFさんと一緒に登った 高竜寺ヶ岳 からCQを出している人がいたので応答する。 12時15分鹿倉廃村へ下山開始。 |
稜線問題なし | 『H』到着 |
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まったく問題なく歩ける。周辺は植林地帯でちょっと暗め。樹間からは村岡方向、蘇武岳、白菅山などが見える。 『H』には12時40分着。机の上ではここを降下ポイントの候補にしていました。 赤白の看板で『まむし注意』が目印。見ると看板を止めている針金が錆びていません。 つまりつい最近設置された模様。書かれている矢印を見るとまさしく鹿倉方向を指しています。 しかし、ここから下ると鹿倉にある家マークを過ぎるのでもう一カ所の下降ポイントへ行ってみます。 |
この辺は雑木尾根 | 町境界『I』に到着 |
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気持ちの良い雑木尾根を歩いていくと町境界ポイントはすぐにわかりました。 ここにも赤白の標識があったからです。それは『山火事注意』とあります。 右の矢印を選択すれば但馬トンネルの真上を通過して但馬妙見まで行くことも可能。 我々は左を選択する。
こちらの尾根も何の問題もなく快調。途中から木の殿堂、その上に十国山、瀞川山などが チラチラと見え隠れする。そのうち、鉢伏のピークが目の前にデンとそびえる。左奥にあるはずの 氷ノ山はガスに隠れて見えない。例の赤白看板はこの尾根でも2度ほど目にする。 |
『K』に降り立つ | 『L』の廃屋へに到着 |
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予定通りに鹿倉の谷の『K』地点に到着。13時半。 谷の真ん中には護岸のされていない(あるいは年月で崩れた)小さな流れがある。 それに沿うようにある耕作地跡を進む。すると地形図にある家屋マークに到着。 やはり廃屋だった。 |
ごめんくださ〜い | お留守のようです |
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集落の頭に動物の名前が付くと、そこはべらぼうに山奥だという(今までの経験で)。 ここもそうだと思っていたら、鹿倉とはここを開拓した(数百年前?)人物の名前らしい。 最盛期には何軒あったのかは知らないが、最後はOさん一軒だけだったようだ。 そのOさんのお宅がここです。
いったいいつ頃に離村したのだろう?土間に立ち奥を真っ暗な奥を見るが居間だろうか?
畳はボロボロで床が抜けているところもある。別の部屋にカレンダーが掛かっているのが見えた。
TQFさんに見てきてと言うがいやだという。とうぜん私もいやなのでデジカメのズームで撮影。
年号はわからないが8月のカレンダーで1日が土曜日だった。
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墓地で調査 | この道で家具などを運んだわけだ! |
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これまでも廃村、廃屋はいくつか訪ねたことがあるが、墓地にいろんなヒントが隠されていることが多い。 そこで墓地を探しながら下っていくことに。こういうときに私は能力を発揮するようで、すぐに発見できた。 江戸時代の古い墓石もあるが一番新しいのは昭和24年だった。それらを見て頭の中にぼんやりと系図が 浮かぶ。
近年にお参りした形跡はなし。ひょっとしたらも別の所で新たに墓石をお祀りしているのかもしれない。
さらに下山を続けます。廃屋からはどこが道がわかりにくかったのですが、田畑跡を過ぎると明確な山道が
現れる。ちょうど阿瀬渓谷にある金山廃村のそれとそっくり。あの廃屋にあった家具類も背中に背負って
運んだのでしょうか。
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『N』にあったお堂 | 道ばたに看板が・・・ |
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丸太の橋(わりとしっかりしていた)を渡ると大きな岩の切り通しになったような所があった。 谷川はここから急斜面を流れ落ちている。そこにトタン壁のお堂があった。 中を覗くと小さなお社があるが、扉が開かないので中に何が祀られているのか不明。 ただ、横手に墨書きで大正初期に建てられたものとある。それはもちろん当時の廃屋の主が建てたもので、 昭和46年にそのお孫さんが修理を行ったとある。 (現在もご存命ならそのお孫さんも100才を越えている)
ほとんど謎の解明も無いまま下山を続ける。すると途中に変な看板があった。
関宮町教育委員会の名前で書かれていたが、ここにアップするのは不適当かもわからないので
あえて伏せておきます(こう書くと見に行くアンポンタンがいるかも)
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電柱跡 | 道路に降ります |
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電柱そのものは撤去されているがその跡はいくつもある。電柱が残っていればその銘板から 鹿倉廃村に電気が通じた年がわかるのだが・・・。ちなみに地面に落ちていた絶縁碍子の 製造年月日は1964年(昭和39年)だった。 家に帰ってから8月1日が土曜日の年を検索してみたら、1900年代に15回もある。 いろんな傍証から1964・70・81ぐらいかと思った。 地形図の地図では最後は谷に降り立つようになっているが、ちょうど『O』の分岐から それとは違う道があった。そちらの方が歩きよさそうなのでそちらを選択。 駐車ポイントの浄化センター前には14時30分。今回も山の不思議に出会えて 灰色の脳みそはフル回転。当分ボケにはならないだろう。
今回の宝引山の地図は
こちら(約190k)
でごらんください。 |