はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『大屋市場』を参照していただくようお願いいたします。 2010. 6. 5. 土曜日 晴れ 気温ふつう
餅耕地からこの山に登るのは実は今回が初めてですが、
いつものように普通のルートでは登らずにちょっとアレンジしてみます。
兵庫県の遺跡資料によると、この山腹に
宝生院地蔵堂という寺院があったという。現在は餅耕地の里に下ろされているが
それがいつのことなのか、その寺院跡は今でも存在しているのか、詳細は不明のままだが
そこを経由して登ってみたいのです。
完璧に車一台しか通行できない集落の道を詰めると一対の石灯籠と鳥居がある。
農作業に来ている老人に話をすると鳥居脇に止めてもいいと言う。その言葉に甘えて
ここをスタート地点とする。9時スタート。
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鳥居の所に駐車 | 林道からスリガ峯を見る |
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この鳥居の前から右に折れると公団林道を利用した一般コース。 正面の舗装林道を行くとベテランコースと案内板に書かれていた。 私はとりあえずその舗装林道を直進する。真っ正面にこれから向かうスリガ峯(大杉山)が そびえていて頂上の直下には『日和岩』が見える。 |
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茅の輪をくぐって | 今日の安全をお祈り |
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裏側から見ると | 小さな鳥居がたくさん |
谷の分岐点に到着。ここには『左(直進)すりが峯登山道 右 山神社参道』と書かれた木柱が 立っている。右、つまり河原を行くと神社があるようだ。去年の大雨でガレガレになっている 河原に下ると、すぐ正面に小さな神社が見えた。 この地方ではどう呼んでいるのかわからないが、いわゆる茅の輪があって、 その向こうに小さな拝殿があった。拝殿の奥には小さな鳥居が直線上に並べられて最奥には ご神体と思われる岩と大杉がある。岩もご神体かもしれないが、その向こうにそびえる スリガ峯自身をお祀りしている神社なのだ。
拝殿の右下にある栃の木の大木もすばらしい。去年の大雨の被害にも遭わずにすんだようで
堂々とした姿で立っている。
その栃の木の脇から川を渡る。
目的の寺院跡はここから登るのだ。桑畑跡の石段が数段あって、それを見ながら
斜面をよじ登る。一気に汗が噴き出してくる。
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激登りが続く | 子鹿がいた |
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いったん緩やかな平坦尾根になる部分がある。細い尾根だが踏み跡はしっかりしている。 近くで鹿の警戒の鳴き声がするなあと思ったら、足元に子鹿がうずくまっていた。 怪我がなにかで歩けないのか、病気なのか、幼いのでおびえているのか、 手を出すのはいけないので写真だけ撮って早々に立ち去る。
バンビちゃんに出会ってから一登りで広い植林地が現れる。ここが問題の宝生院地蔵堂跡、堂山と 呼ばれる地点だ。 10時05分。 周辺をぐるーっと一周してみる。足元に石があると裏返してみたりする。 五輪塔とか瓦の破片とか見つけることは出来なかった。 ただ、とにかく平坦で広い。
下山後、餅耕地の総代を勤められた朝日さんからいただいた資料によると、現在残っている地蔵菩薩の
仏像にある承安四(1174)年の文字から平安末期にはここにお寺があったということだ。
さらに餅耕地の里に下ろされたのは明暦元(1655)年とある。つまり350年前にここから
遷座されたのだから遺物が残っているほうが不思議かもしれない。
それでも朝日さんは昔、ここで一間間隔で礎石があったのを確認したという。
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身体が緑に染まる | ここも広い |
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地蔵堂跡からは山頂を目指すべく、ただただひたすら上へ登れば良い。 植林も多いが目を移動すれば雑木のまばゆいばかりの緑もある。 途中には、ここも怪しいなあと思えるような平坦地もあった。 植林の中にある踏み跡を登っていくと予定どおり林道へ出た。10時45分。
さて、どうするか。当初考えたルートは『あ』地点から山頂へ向かうつもりだった。 しかし、今日は体調が悪いのか、単にお腹が減っているのか、どうにも足が動かない。 ふと見ると、真っ正面にソマ道があるではないか。 どこに向かっているかわからないが、こいつを利用してみるのもおもしろそうだ。 |
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ソマ道を登る | 支尾根にはブナいっぱい |
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檜の植林のための道のようだ。山腹にジグザグに付けられていて 支尾根からつかず離れずで登っていく。いったん植林帯が切れると そこにはブナを含む雑木の林が広がる。炭焼き窯跡もあることから 昔からソマ人が通っていたようだ。そのソマ道はさらに山腹を巻くように伸びていたが 私は右奥に見えている支尾根に取り付く。これが一番山頂に近そうだ。 |
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山頂手前。フラフラ(>_<) | 山頂着 |
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支尾根は急斜面となり両手両足でよじ登ることとなる。岩混じりの斜面には イワカガミのピカピカと光る葉っぱが多くて、踏まずに歩くことが困難なほど。 やがて展望の岩場に着く。どうも体調が悪くて左足が攣る。宮本のクソブ滝からの コースと合流すると頂上は目の前だ。 誰もいない山頂には11時45分着。普通の登山道からだとどれぐらいで登れるのだろうか? |
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山頂からの展望 |
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山頂には新しく設置された金属標の三角点(何等か確認もれ)、山の同定が出来る案内板、コース図、道標、 などなどが賑々しくあった。初めて登ったときとはえらい違いだ。しかも周囲を刈りはらっているので 展望もすこぶるよい。ただ、今日はかすんでいるので遠望はだめだった。 ここから天滝が見えた時は感激したが、今では誰もが知っていることとなってしまった。
木陰で食事をしていると単独の男性ハイカーが登ってきた。ちょっと話をするついでに
ここの山名についてもレクチャーしてしまう(いらん世話かも)。
「ここの正式の山名は『スリガ峯』って言うんですよ。で、隣にある須留が峰は『アオマ山』って言います」
って、はたしてわかってくれたかどうかは不明・・・(^_^;)。
そもそも、このスリガ峯(大杉山)は一等三角点が設置されるはずだった。ところが、明治19年の 測量のための登山の途中で突然の雷雨となる。これは山頂にある大杉に住まいする天狗のためと 同行の人夫が逃げ帰ったためにスリガに三角点は設置されることはなかった。 その代わりに隣にあるピーク、アオマ山に二等三角点は明治24年に設置され、地図には あろうことか『須留が峰』なる山名が明記されてしまったといういきさつがある。 その後、天狗が住むというスリガ峯はその由来の大杉からか『大杉山』と名前がつくことになる。 詳しくは須留ヶ峰・大杉山 山名考 を参照していただきたい。
単独さんがアオマ山に向かったのをきっかけに私も下山をしよう。
コースは普通のコースで下ることにする。
その前に天狗が住んでいたという大杉(地元の人はグヒンさんの木と呼ぶ)を見る。
それは落雷のために姿を変えているが、いかに大きかったかは想像できる。
天狗の廃屋を離れて12時45分下山開始。
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まあまあの下山尾根 | 分岐の鞍部 |
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このルートは初めてなので楽しみだ。途中で加西から来たという4人の熟年グループを 立ち話をする。今日出会ったハイカーはこれだけ。この時期ハイカーが少ないのは 山ヒルがいるからだが、今日は乾燥しているので大丈夫だろう。 下山鞍部には13時05分着。ここから尾根をさらに進むと『小須留が峰』というピークに至る。 |
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なるほどこりゃ良いわ | 栃の木 |
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他のHPで見る写真には雑木のルートがあるのだが、どうやらこの鞍部から下る 斜面がそれらしい。たしかにこの周辺が一番の見どころのようだ。 やがて植林帯となり見どころも無くなる。ずいぶんと長い下りだったがようやく 林道の終点に降り立つ。13時35分。下るのもしんどかったぐらいだから、 ここから登るのもたいへんそうだ。 |
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ここから右に下る | 樋釜の大滝 |
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要所要所にはイラスト地図と『須留ヶ峰 ○○k 約○○分』なる道標がある。 この場合の須留ヶ峰とは当然スリガ峯(大杉山)を指している。したがってここを登った ハイカーのHPでは「地図の距離と時間は間違っている」とか「この山域すべてを指して須留ヶ峰と 言うのであろう」などと書かれているが、事情を知らなければそれも致し方ないことかも。
山腹をへつるのように細い道が付けられている。どうもこういう道は苦手で、ちょっと足を滑らせると
谷底へ落ちていきそうな感覚に襲われてしまう。100年前にここを『測量杭』を持って
測量隊は登っていったのだろうか。攣った足がガクガクになるころようやく谷底に降り立ち、そこには
滝があった。左右2条の滝がある。左が大きく、右は視界から隠れ気味だ。
これを『岩滝』としているWEBもあるが、『樋釜の大滝』だと思う(未確認だが・・・)。
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大石の横を通過して | 林道終点に着く |
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大石(地元ではそう呼ばれている)は写真では表せないほどでかい!石の上を見上げると首が痛いほどだ。 やがて谷道も終わって林道に出る。14時35分。林道の分岐に2台の車が止めてあったのは 山で出会った二組のハイカーのものだろう。山神社の横を通って駐車している鳥居横には14時50分。
350年前に里に下ろされた宝生院地蔵堂に寄ってみる。それは産霊神社の敷地内にあった。 ガラス越しに覗くと本尊の地蔵菩薩と脇侍には持国天、増長天が見えた。三体とも金ぴかなのは 昭和の初めに塗り直しされたためらしい。持国天、増長天は四天王なので、残りの多聞天、広目天も 当初はあったのだろう。このお堂が堂山から里に下ろされて100年ほど経ったころ、 『48夜念仏』なるものが始まる。この由来について朝日さんからおもしろい逸話を後日聞く機会を得た。 その詳細は・・・・。 こちら48夜念仏 をごらんください。
今回のスリガ峯(大杉山)の地図は
こちら(約130k)
でごらんください。 |