綾木峠〜伊呂宇山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『印播郡家』、『郷原』を参照していただくようお願いいたします。

2010. 9.26.  日曜日  曇り時々小雨  気温 暑い

先週は波佐利から大ボウシまでの長距離を歩けたので、調子に乗って今週はこのコースを 選んでみた。ほんとうは伊呂宇山だけに登ってみようと考えていたのだが、これだけだと簡単すぎて いかにも頼りない。そこで綾木峠からの縦走を考えたのだった。 同行はOAP、TQF、MXFの健脚な無線仲間。

柿原集落の手前、ちょうど中電の高圧送電線の真下に駐車スペースがあった。 この送電線の巡視路を下山コースに設定しているのでちょうど良い場所だ。 巡視路の入り口を確認しようとして変なものを発見。

この石柱が目印となる

それは『有本家墓地登山道』という石柱だった。登山道という文字に一瞬ここが伊呂宇山への 正規登山道かと勘違いした。下山時にその有本家のお墓をみたら、それは黒住教の関係するお墓であった。 黒住教とは幕末期に発生した天理、金光、とともに幕末三大新興宗教と言われているものらしい。

9時40分スタート。 2台の車で来ていたのでもう1台で行けるところまで行こうと言うのを却下する。 歩いていればいろんな発見があるが、車だと見過ごしてしまうし、何より集落までの 距離もそんなに無いでしょ・・・。というわけでさっそく地形図にある神社を覗いてみると いきなり傾いた鳥居が目に飛び込んだ。集落のはずれにある神社がこんなに荒れているなら柿原集落は どうなっている?

清常神社廃屋状態の公民館

予想通り廃村だった。過去には40戸ほどあった時代もあるそうだが、今は廃屋も含めて10戸に満たない。 中にはまだ充分に住めそうな家屋もある。これらは かっての住人がときおり戻ってきて家の中に風を入れているのだろう。だからまだ廃村とは言えない?

ちょうど村の中程にいくつかの石造物があった。 一つは地蔵菩薩の石仏。大乗妙典日本回国供養塔は文化年間と弘化のものが二基。 時間の関係でどちらも詳細には見ることはできなかったが、 ちらっと伊勢の文字が見えた。伊勢と言えば、これから向かう綾木峠は古来からの生活道であるのと 同時に智頭町から見ると伊勢参りへの 街道だった。智頭から峠を越えてこの柿原へ。そしてここから若桜へ抜け、氷の越えで兵庫へ出るという寸法だ。

地蔵と大乗妙典日本回国供養塔笠と火袋の部分が落ちている

先ほどの話を蒸し返すと、黒住教は昇る朝日を拝む宗教で、教祖が天照大神と一体の境地になったことから 天照大神を祀る伊勢神宮への奉賛活動が今も盛んだという。 伊勢への街道であった柿原で黒住教が盛んであったというのは何か 関わりがあったのだろうかと想像するだけでも楽しい。

まるであつらえたように道を挟んで『太神宮』の石灯籠もあるではないか!笠と火袋の部分は地面に落ちてしまっているが かなり巨大なものだ。そして 『太神宮』とは伊勢神宮のことに ほかならない。偶然か、伊勢というキーワードのものがいくつもそろっている。 (ちなみに石灯籠の横手には『天保六未(1835)十月』となってるが、この年にはすでに黒住教は存在している)

すごいお屋敷もあるここからいよいよ自然歩道

さらにこの柿原を調べているとおもしろいことがわかった。今年の初め 鳥取環境大学がここの山中に洞窟(千手院窟堂)を発見したのだった。それは柿原から直線距離にして 10kほど離れた若桜の岩屋堂にある不動院岩屋堂を模したものだという。さらに調べてみると 岩屋堂が本村で、柿原が分村だったらしく、言い伝えでは二つの洞窟は地中で繋がっているとか・・・。 (以上、鳥取環境大学浅川研究室ブログより)

そんなお宝ポイントがすぐ近くにあるとは知らずに4人は舗装路の終点に着。10時20分。 ここには綾木峠まで2.8kと書かれた道標がある。それを見て「やっぱり車で来てたらよかった〜」と ブーイングの嵐が吹き荒れる。

棚田跡か立派な石垣が続く

自然歩道は谷川に沿うようにある。細い峠道の両側には整然と積まれた石垣で作られた平地がある。 現在は植林がされているが昔は耕作地か家があったはず。 「これは桑畑か、棚田か?」すると自称石垣評論家のTQFさんが「これは棚田跡に間違いない」という。 自然歩道の入り口付近から15分ほど奥までそれらの石垣群が続いていた。
熊に柱がかじられている谷を離れる

石垣が無くなると道が川に流されてしまったのか、道の不明瞭なところも出てくる。 やがて道は谷を離れて左山腹を巻くようになる。 主谷から離れて左方向へ巻き続けるのでどうなるかと思ったが 、ジグザグに登りつつ徐々に右に戻っていく。 2.8kの距離はさすがに堪えて疲労感は強い。
峠手前から極楽となる
柿原側の峠智頭側から見た峠

峠には11時40分着。なんとかお昼前には到着できた。標高は870mほどか。 もっとヤブっぽい所かと想像していたが、自然歩道だけあって?ごく普通の切り通しの峠だ。 残念なことに石仏などはなかった。公設の看板は雪のために無惨に朽ちていた。杉板に書かれた手書きの標識が 智頭側に向かって『杉の木茶屋』とあるのが気になる。智頭側のどこかに遺構があるのだろうか。

ここから西に登れば鳴滝山、東に登れば971.2mのピークを経て今回の目的地である伊呂宇山へ続く。 峠に来るまでは食事は峠で!が合い言葉だったが、ここに来てやはり971.2mで食事にしようと 力を振り絞る。絞っているのは最後尾の私だけで他の人は余裕で登り切る。

手前の廃材は小屋の跡

二等三角点、点名『八谷河』には11時55分着。展望は無く、作業小屋の跡がある。 こんな山深い三角点にもucodeチップが埋め込まれていた。 さっそく昼食に取りかかるが、今日は宍粟の三久安山にJO3WCYたらちゃんが登っているので 無線もチャレンジしなければ・・・。

こちらの標高が1000m弱あるので簡単に繋がるだろうとたかをくくっていたがまったくダメで、 リピーターを使ってなんとか交信できた。山頂はガスがかかっておりちょっと肌寒いので 温かいうどんは正解だった。 この後雨にならなければ良いのだが予報は良くない。 12時45分伊呂宇山へ向かって再スタート。

このピークは八東町・智頭町・船岡町との三町境界になっており、智頭・船岡の境界に沿って 歩けば以前登った海上山、牛臥山まで行くことも可能だ。 今回は船岡・八東の境界を行くことになる。(旧行政区の境界です)

次の目標は標高900.1mの点名『柿原』だが、その中間地点には903mのピークへの 登り返しがある。幸いなことに船岡町からの林道がこのピークを迂回するようにあるので それを利用する予定だ。方向を見極めて斜面を下る。踏み跡は薄くてちょっと不安になるが、 ブナも現れて心も和む。

これが林道?あせびに覆われた点名『柿原』

鞍部から左にある林道に降りる。これで登り返しが回避できるともくろんでいたのだが、 この林道がくせ者だった。道はすっかり木々が生え込んでおり、のり面側にわずかに獣の 踏み跡が利用できるのみ。それでも前進をする。西側が見える箇所があり、那岐連山をはじめ、 以前登った洗足山などが見て取れた。一番特徴がある姿をしていたのが智頭の籠山だった。

やがて林道は唐突に終点となり、そこから稜線へ登り返す。 稜線は細くて、アセビのヤブに行く手を阻まれる。このままでは伊呂宇山までに 時間切れとなりそうだ。2カ所のアセビ薮をクリアーして四等三角点(金属標)の 点名『柿原』には14時。立ち止まることなく前進。

まあまあ歩きよい732手前。和太鼓の音が聞こえてきた

三角点先から90度右折れで稜線は続くのだが、これが峠からの前半よりは歩きよかった。 とりあえず下り基調なので若干でもスピードを上げたくなる。 耳を澄ますと和太鼓のリズムが聞こえてきた。29号線から柿原へ向かう途中にある鍛冶屋の温泉で なにやらイベントがあるようで、それの音のようだがこんな山深いところで和太鼓が 聞こえるとは思わなかった。

正直、距離が長いと疲労も蓄積されて周囲を観測する注意力は著しく衰えてくる。したがってその途中の印象は ほとんど残ってなくて足元の印象しか残っていない。気が付くと視線の奥に送電線鉄塔が見えてきた。 つまり下山路予定の鉄塔が目の前に現れたのだ。やれやれ・・・。

矢印の松の下に石仏。その向こうに鉄塔笑っているのがわかりますか?

さらに驚くべきことに、鉄塔手前にある大きな松の木の根本には石仏があるではないか! つまりここは峠ということになる。思わず三人に「石仏があるっっっっ〜!」と大声で言う。 駆け寄って見ると舟形で錫杖を持った地蔵菩薩だった。 首のところから切断されているのを補修されていて、足元にはお賽銭もある。 つまりお詣りに来ている人もいるということだ。 後にこの峠は『倉谷越え』という名前だと判明

このお地蔵さんの特徴はなんと言ってもその表情だ。それは笑っているように見える。 なんともハッピーなお地蔵様。後背部分の文字を読みとろうとしたが欠けがひどい。 『□化□年七月吉日』と肝心なところがわからない。『弘化(1844〜1847)』 か『文化(1804〜1817)』のどちらかだと思われるが、干支の二文字目が『子』と 読めそうだ。すると『文化元年甲子(1804)』か『文化十三年丙子(1816)』の どちらかになる。

左側は『□河谷村若連中』。河と谷が付く村を探してみると八河谷村が該当する。 しかし、それはこの峠のどちらでもなく、初めに登った綾木峠の智頭町側に下ったところの村だ。 念のために100年間に廃止になった村の一覧も調べてみたが該当する河と谷の集落はなかったので やはり八河谷村のことだろう。

この奥が伊呂宇山だ

この峠に着いたのが14時53分。この先にある伊呂宇山までは往復いくら時間がかかるのだろか? 行けるかどうか思案している間に三人はすでに登り始めていた。またまた最後尾を着いていく。
伊呂宇山山頂千代川の河口が見える

三等三角点、標高696.7mの伊呂宇山には15時15分。予定の時間はオーバーしているし、 今にも雨が降りそうなのでそそくさと下山を開始だ。取り急ぎ山頂の周辺を探索すると 別途地図にあるように二カ所に踏み跡があった。どちらも登山道として利用している感じだ。 木々の間から日本海と鳥取の市街地が見えた。よし、これで今日の山行きは完了。 OAPさん曰く「伊呂宇山へは山登りじゃなくて山下りやったなあ」
峠に戻って東に下る巡視路を下る

たしかにピークの標高でいうと今日一番の低いピークである。峠には15時33分。 正直言って膝が痛み始めたので山頂よりは常に最後尾となる。 TQFさんは今日の山行きが最後まで安全であるようにと一心に石仏にお経をあげていた。
けっこう距離感がある竹林を抜けると道路だ

OAP、TQFさんの二人は走って下山している。MXFさんは私に気を遣ってか一緒のペースで 下ってくれている。地図では短く感じていたが鉄塔の続く様を見ると 遙かに遠く感じてしまう。最後の竹林を抜けると道路だが、その手前左側に 有本家の墓地があった。仏教のそれではないのでなかなか見ることのできない墓石である。

今日も12kのロングコースになってしまった。麻薬のようにどんどん距離が伸びないと 歩いた気分にならないのが怖い。帰宅後に調べてみると 例の『千手院窟堂』も実はこの有本家の墓地近くにあるのだそうだ。 チャンスがあればぜひとも見てみたいお宝ポイントだ。 駐車ポイントには16時20分。29号線に出て若桜を過ぎる頃から雨になった。

今回の綾木峠〜伊呂宇山の地図は こちら(約210k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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