加盛山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『神子畑』、『大屋市場』を参照していただくようお願いいたします。

2009. 5. 1.  金曜日  晴れ  気温ふつう
去年の12月に神子畑の鋳鉄橋の駐車場を起点として、地元で かせい と呼ばれるピークを目指すレポートを書いたのだが、この不思議な山名を持つピークについてもうちょっと 調査をしてみたくなった。その時は山頂に立つことも出来なかったし、そこが『かせい』という ピークなのかはやはり実際にそこに立ってみないとわからないものがある。

今回は宍粟の黒原から登ってみることにする。神子畑に降りることは出来ないので 必然的にピストンとなる。 このルートは2003年に 点名『神子畑』 に登るさいに使ったルートでもあるので様子もわかっていて安心だ。 三町境界までは前回通りのルートになるはずなので6年前とどうかわっているかも確かめたいし、 その6年前に見つけられなかった、黒原から明延の一の段に抜ける古道も探してみたい。

黒原奥にある浄水場ずいぶんと奥まで道はある

浄水場の前にある広場に車を止めて9時15分スタート。林道の入り口には 6年前に無かった『揖保川支流 黒原川源流』という木柱が立っていた。 私のレポートにもちょくちょく出ている源流碑なるものがこの奥にも出来たらしい。 どういった存在目的があるのかまったく意味不明のものである。 木柱の裏を見ると例によって落書きがあった。公費で作ったものに落書きを、しかも それはこれを建てたメンバー自ら描いた落書きである。 私以上の馬鹿がいたことに安心をするとともに、これじゃあ日本も駄目になるはずだと 悲しくなる。

最初は舗装の林道でやがてダートになる。右手に谷の流れを見ながら 砂防ダムを過ぎて林道はちょっと道幅が狭くなる。が、まだ奥まで車で行けそうだ。 ちょっと行き止まり風の箇所から流れを渡って左岸を歩く。再度右岸に戻って しばらくすると、それまではずーっと植林の中の暗い道だったのが写真のような箇所に出る。 10時ジャスト。

今回はここを直進

記憶にも残っていたし、6年前のレポートにも書いた箇所だ。 ここにも源流碑を案内する木柱がある。前回はここから左にある支尾根を登っていったのだが、 今回は直進してこの源流碑コースをたどってみようと思う。 生え混んでいた前回と違って楽に歩けそうな感じだ。それでも奥で谷は左右に分かれていたりするので どちらが本流か見極めながら進んでいく。一の段越えの古道は見つからないが源流碑にはたどり着けた。
源流碑着。この上が三町境界だ

立派な源流碑だが特にこれといった感慨も無い。 山中で朽ち果てたようなテレビの受信施設の見つけたりするが、そちらのほうが 出会ったときの感動が大きい。まあ、馬鹿のやることだから理解不能なのは仕方ないのかも。 その源流碑の上には三町境界がもう見えている。

斜面をよじ登っていくと途中でしっかりした道と出合う。それは三町境界に向かっていた。 振り返ると源流碑の西にある支尾根から来ているようだ。こいつが黒原から一の段へ抜ける古道だ。 帰りにはこれを歩いて見たい。

三町境界近くにある展望地

境界ピークからちょっとかせい寄りの所に展望地がある。6年前はそこそこの展望があったのだが、 6年の月日は植林された杉がしっかりと成長するに充分であった。 上の写真は6年前と変わらないように見えるがちょっと苦労して写したものだ。

ここから雑木の気持ち良い尾根が続くことになる。ふと右手の神子畑側斜面をのぞき込んでみると、 なんと舗装された林道の一部が見えるではないか。笠杉トンネルの下、神子畑側から 始まっている林道がここまで延伸されたということだ。稜線からはまさに目の前の20〜30mほど下方のようだ。

気持ちの良い尾根新設の三角点だ

登り返した小さなピークには新設で金属標の四等三角点があった。国土地理院のHPにも まだ登録されていないものだ。周囲を刈り込んでいるおかげで神子畑にある間歩谷ダムが 見ることが出来た。その先には国道429も見えている。
神子畑の間歩谷ダム
雑木の尾根が続く一の段越えの鞍部

去年の11月に訪れた 一の段越えの 鞍部には11時08分着。ここには明延から神子畑に送電するための電柱跡がある(画面中央にある 二つの突起)。 いつぐらいのものかはわからないが歴史の遺産だと言っていい物だ。先ほどの 源流碑よりはるかに興奮する。さらに過去を振り返ると、 この送電線以前は明治45年に設置されたという明延鉱山明神索道の塔があったはずだ。 一円電車ができるまではその索道で鉱石を神子畑に送っていたのだ。そして 当然だがここから神子畑の間歩谷ダムへ向かって下る道も存在している。

周囲を眺めていて驚いた。ある一定の範囲内の木々にマーキングがされているのだ。 それはマーキングされた木々をいずれ伐採するという意味のもの。 よく見てみると神子畑からこの鞍部を通過して明延へ伸びている。 帰宅後にいろいろと調べてみると、どうやら先ほど稜線下に見えた林道がここを通過するようなのだ。 そしてそれは須留が峰山塊をブチ切ってカカナベ峠へ続くらしい。歴史の遺産を破壊しつつ伸びる林道。 はたしてどうしても必要な林道なのだろうか・・・。

ここが加盛山か?雰囲気満点の斜面

そこから一登りで標高980+mの雑木ピークとなる。さきほどの鞍部から神子畑に下った所は 現在は間歩谷ダム(鉱滓堆積ダム)があるが、その昔は不動明王の社があったらしい。 その社は集落近くの山神社に移されたのだが、現在もダムに残っている石灯籠には『加盛山』の文字が 彫られている。つまり前回の『かせいやま』は『加盛山』が正しいということがわかった。

そして明治11年に銀鉱山として栄えた加盛山はその後大正6年に閉山された歴史がある。 その後、神子畑は明延で採れた鉱石の選鉱所となるのだが、問題の加盛山は 現在立っているこの980+のピークがふさわしいように思える。しかし、 とりあえずもう一つの候補である点名『佐中』へ向かってみよう。

さらに続く雑木尾根点名『佐中』

はたして先ほどのピークが加盛山か、この先にある点名『佐中』が 加盛山か、あるいはこの山域全体を加盛山と言うのか・・・。 その確認したくても 残念ながら神子畑は明延の選鉱所という立場から資料はまったく残っていないということらしい。 神子畑にある五郎蔵という地区にいるKさんにいろいろとお話を伺ったが、これらのことはKさんの お父さんまでの年代でまででないともうわからないという。

点名『佐中』には11時40分着。この周辺もすばらしい雑木帯だった。 国土調査が行われているために周囲は軽く刈り払われている。 その真ん中には三等三角点がある。標高931.2m。 前回来られなかったピークだが、反対方向からだとあっさりと来ることができた。 麓から見るとこのピークが良い姿なので『かせい山』だと思ってしまったのだ。

これ以上先に行くと大きく下って前回引き返した鞍部となってしまう。 ちょうどお昼なのでここでお昼にして引き返すとしよう。 食事も早々に済ませてしまったので12時引き返すことにする。 雑木帯の尾根はうれしいのだが展望が無い。木々の間から 須留が山塊が大きく見えるだけに残念だ。

黒原の古道を下る

加盛山と推定するピークでコーヒーを飲んで一休み。 三町境界には13時25分。ここから古道を使って下山する。 道は明確で左下には源流碑も見えていた。最後に谷に降りる付近で不明瞭となり、 その方向に倒木が見えたので古道は見限って斜面を下る。 倒木などのために古道の取り付きがわかりにくかったようだ。 林道も一気に下りきって駐車場の浄水場には14時10分。
子安地蔵けっこう大きい

黒原の集落には子安地蔵のお堂がある。その看板を書き写してみた。 『前略・・・・ある言い伝えによると、今から500年ほど前の室町時代に左近太夫というものがこの地をおとずれ、 一本の大木から三体の地蔵を刻みつけたといいます。一番目は黒原の地蔵で、二番目は山城国山崎、三番目は安芸国広島に あるということです。・・・後略』 中を覗いてみると中央に地蔵菩薩の半伽像、向かって右が不動明王、左が毘沙門天と並んでいる。 それらはけっこうな大きさで、500年前のものだとしたら価値のあるものだ。
スケッチ画を見せてもらう

帰りに神子畑に寄ってKさん宅の寄ってみる。前回の登り口に通過させてもらったお宅だ。 そこでおもしろいものを見せてもらった。お父さんが昭和48年(ちょうど選鉱所が閉鎖された年)に描かれたスケッチ画が数枚。 それには大正時代の周辺の風景などもある。その中の一枚が上の写真だ。 右上に『現在の五郎蔵 S48.3画』とある。それには加盛山のピークがしっかりと 描かれていた。お父さんがご存命であればいろいろとおもしろいお話が聞けたことだろう・・・・。

今回の加盛山の地図は こちら(約160k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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