はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『因幡郡家』、『若桜』、『岩屋堂』を参照していただくようお願いいたします。 2008.11. 9. 日曜日 曇り後小雨 気温寒い
今回は普通の山行きではなく、戸倉峠周辺を探索してみようということになりました。
戸倉峠の下には昭和の戸倉隧道、さらに下には平成の戸倉トンネルが存在しています。
それら三カ所をMTBで走ってみたいというのがずいぶんと昔から考えていたことでした。
ところが、ひょんなことからこの近辺に
陸軍が工事をしたという軍用トンネルの存在を知ることとなる。
そうなるとこれはもう何が何でも行けなければなりません。
ネットで調べてみると『氷ノ山ネイチャークラブ』 というところがクラブのイベントで その軍用トンネルの中に入ったとそのHPで記載があった。メールで問い合わせをしようかと思っていると、11月9日に 若桜の三倉にある廃坑を探検するイベントがあるという。これに参加して戸倉も行けば 一日まるまる穴蔵三昧となるわけだ。 M氏も大いに乗り気で、いつもはいやがる早朝の出発も問題なくOKだ。 集合場所の若桜鉄道の若桜駅には早めに着いたので周辺を散歩する。 予定の時間に駅に戻るとすでに参加者も集まっていた。 自己紹介の後、資料をもらって各自の車で目的地へ向かう。
南北に延びた若桜の町から西に延びた三倉の谷を行く。わずかにあった民家も無くなって 谷に沿った林道となる。車が数台止められるスペースがあり駐車する。 そこには中国自然歩道の案内板があり、この林道が自然歩道なのを知る。 ここでヘルメットとライトの準備を済ませ、さらに林道を行くかと思えば、なんと 案内板の裏斜面を登っていくのだった。
植林の隙間から見るとすぐ上に黒い坑口が見えた。自然の洞窟のようにも見えるが 中を覗くとそうでないことがわかる。入り口すぐは大きな空間が掘られており、 さらに試掘だったのか奥行き数mで高さ背丈ほどの小穴があった。 本抗はこの一段上にあるらしく、ここはこれ以上に掘削はされていないようだ。 右手にあるコンクリートブロックの一角は火薬保管庫だったと想像する。
その一段上にある本抗へ行ってみる。ズリの斜面をよじ登ると 先ほどより一回り以上大きい口が開いていた。 各自ライトを点灯させて中に入る。
もらった資料にはこの廃坑では珪石を採掘していたという。というか、戦中、戦後まもなくも稼働していたが、 何を採っていたのかわからなかったのが実際らしい。いろいろ想像するに、珪石ならわざわざ坑道を掘る必要もなく、 露出している岩盤を削り取れば事足りるはず。廃坑の中にはいろんな方向に坑道が掘られている。 さらに天井にライトを当てると、なにやら光る 結晶のようなものもある。何の鉱物かはわからないが鉱脈を探していたのではないだろうか。 もらった資料にも『三倉の廃坑もマンガンの鉱床や含金石英脈を探していたのかもしれない』と締めくくられていた。
ピーピーと電子音が坑内に鳴り響く。周辺の酸素濃度を測定する器械が警報を発しているのだ。 聞くと屋外より2〜3%ほど酸素濃度が低いらしい。最奥のホールへ向かうと、そこだけ空気が動いていないためか、 突然なま暖かくなりそれと同時にいやな臭いがしてきた。 コウモリの糞の臭いか?あるいはガスか?気味が悪いので後ずさりする。
林道に降りてそのまま歩いて行く。すぐに分岐があってシングルトラックの良い道が正面にある。 「こちらのほうが良いので、こっちを歩きましょう」この先で再度林道と合流すると思われるこのシングルが 自然歩道だ。右手は石垣のある棚田跡で、そこにはクヌギの大木が生えた大岩があった。 立石さんと呼ばれる岩くらで、正面に回るとそこには大きな石碑がある。『盛次大権現』と彫られており 、平家の落ち武者、平盛嗣を祀る石碑という。つまりここ三倉は平家の落人部落だったというわけだ。 クラブのメンバーで先ほどの廃坑の持ち主でもある盛○さんはこの平盛嗣の子孫であり、盛の一字を 名字としているのだった。
橋を渡ると先ほどの林道と再合流する。その先で右折れすれば遠見峠への峠道となるのだが、 公の標識がどういうわけかそこには無く、何も書かれていない小さな矢印道標だけが唯一の目印だ。 地元では小畑越と呼ばれており、昔は鳥取から戸倉へ向かうにはこれが本道だったという。資料によると 現在の29号線(八東川沿い)には渡しやら、岩山越しなどの難所が多かったとある。 山道ではあるが、牛馬が通過するには川の渡しなどのないこちらの峠道のほうがよかったのかもしれません。 峠には石仏もあるというのでまた訪れてみたい峠が増えてしまいました。 駐車場所に戻ったのはちょうどお昼前だったので、我々は失礼することに。 みなさん、どうもありがとうございました。
出発してから気が付いたが、軍用トンネルの正確な場所を教えてもらってなかった。 まあ、どうにかなるだろうと鳥取側の昭和の隧道前まで来る。この周辺は(今年だけ?)とんでもなく 紅葉がきれいだ。見上げると戸倉峠はほん目の前に見える。目をこらすと2台の乗用車まで確認出来た。 赤谷山にでも登っているのだろうか。まずは隧道前で食事にする。 そうしているあいだにも下から車が何台も登ってきては下っていく。みんな紅葉をカメラに収めては 帰っていく。やはり紅葉の隠れた名所らしい。が、我々のようにトンネルに興味のある人は皆無のようで、 閉鎖された戸倉隧道にいちべつもくれない。 まずは軍用トンネルを探し、その後はMTBで戸倉隧道を走って兵庫に抜け、そのまま戸倉峠まで登る。 こんどは平成の戸倉トンネルで鳥取に戻るという計画だ。峠+三つのトンネル制覇なるか? すると、M氏が「ここから旧の峠道で戸倉峠まで歩いてみようや」と私の夢をぶち壊すような発言をする。 まあ、それもおもしろそうなのであえて反対はしないが、とりあえず軍用トンネルを探さねば・・・。
地形図でだいたいの予想をつけ、戸倉隧道の左横を行く。正面に堰堤があってそれを越えると 目の前にトンネルが!!
「あった、あった!」と喜んだが、えらく小さいトンネルだ。のぞき込むと向こう側が見えている。 どうやら単なる水路のトンネルだったようだ。屈みながらそれをクリアーする。 その水路トンネルの上には左右(南北)に水平道があった。 軍用トンネルの工事に使われたものかもしれず、 試しに左(北方向)に行くとすぐに谷に阻まれるがそこには平坦地があった。 飯場か宿舎でもあったのかもしれない。 ということで引き返して右(南方向)へ向かうと・・・・。
おお!!ありました。思ったよりでかい入り口です。内部に入ってみるとコンクリートで しっかりと壁が出来ている。しかも60年以上経っているとは思えないほどきれいだ。
ネイチャークラブのHPから引用させてもらうと、 『昭和17年に掘削工事に入ったものの、終戦のため未完成のまま放置されたトンネル(400m)が 残っている。戦中の本土決戦に備え、物資の運搬や避難道路として陸軍の要請で着工され、地元 作業員のほか韓国人労働者100余名を含めて昼夜三交代による突貫工事が行われた』 とある。 さらに、『まず人が立って通れる位の導抗が掘られた穴が兵庫県側まで貫通しており、 次にこの周囲を掘り広げて進みながら、最後に内側を丸形にコンクリートで巻く工法が とられた』この記述どおり、上の写真を見れば横壁の背丈ぐらいの所に 継ぎ足した跡が見える。その奥ではまだ掘りきられていない岩盤が残っています。
コンクリートの屋根が無くなる所までやってきました。さらに奥は導抗と思われる 小さな穴が見えています。普通なら行ってみるのですが、ここの空気が三倉の廃坑と同じような 臭いで満ちていました。空気の流れも無いので酸素濃度も低いでしょうし、変なガスがあると 怖いのでここで引き返すことに・・・。 ちなみに『日本の廃道』の主催者N氏はさらに奥まで行き、閉塞しているのを確認しているという。 外に出て大きく深呼吸。あら?雨が降っています。 それにしても、戦後の国道整備の際、なぜこのトンネルを再利用せずに、新たに戸倉隧道を造ったのでしょうか?
雨のために歩いて戸倉峠まで旧道をたどるのはやめにします。当初の予定どおり、 MTBで戸倉隧道を走ることにしますが、兵庫側から平成のトンネルで戻るのはキャンセルして、 隧道のピストンということで話がまとまる。
ところが好事魔多し。M氏のMTBの車輪がトラブルです。内容はばかばかしいので 省略しますが、とりあえずM氏はMTBに乗れなくなりました。 「めんどくさいからランニングや〜」とテンションは高い。
平成5年に新戸倉トンネルが完成するまでにこの隧道(昭和30年に開通)を 何回往復したことでしょう。その隧道が今は廃道と化してまっくらな中をMTBで 走っている自分が不思議です。
路面は一見きれいに見えるが、天井にあるナトリウム灯のガラスが散乱している。 パンクするとやっかいなのでそれを避けながら走る。隧道は742mしかないが 鳥取側から兵庫側の出口は見えない。というのが、隧道はひらがなの『へ』の字の様に なっていて、県境マーキングの先が隧道の最高部でそこまではゆるい登り、そこからは緩い 下りとなって兵庫側の出口がある。 明るいライトと、カメラのフラッシュ撮影のために、なんでもなく通行しているように みえますが、実際は真っ暗ですし、危険であることは間違いありません。 言い古された言葉ですがあくまでも自己責任の行動です。
新戸倉トンネルの鳥取県側には地蔵の祠があって中には地蔵菩薩の石仏が安置されている。 聞くところによると石仏は、昔は戸倉峠そのものにあったという。 それがやがて戸倉隧道そばに降り、こんにち新戸倉トンネルの横まで降ろされて、 何百年ものあいだ人々の通行を見守っているわけだ。 前垂れが何重にも掛けられており光背の文字を読みとることは出来ない。 代わりにこんな歌が壁にかかっていた。『にしき山 山のふもとの地蔵堂 下ってうれしや 今日の佳き日かな』 今回の三倉廃坑・戸倉軍用トンネル・戸倉隧道の地図はありません。 |