一の段

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『大屋市場』を参照していただくようお願いいたします。

2008.11.29.  土曜日  曇り後小雨  気温寒い
2週間前に訪れた明延に再訪する。今回はその鉱山跡のさらに奥にある『一の段』と呼ばれる ところへ行ってみる。そこは明延と神子畑をダイレクトに結ぶ峠もある。 明延と神子畑と言えば一円電車が有名であるが、その一円電車の通るトンネルができる昭和4年までは この一の段を経て神子畑まで鉄索によって鉱石が運搬されていたという。 つまりスキー場のリフトのように鉱石を積んだバケットがゆらゆらと空中を浮遊していたわけだ。 想像するだけで楽しいが、今日でもその痕跡が残っているだろうか。
あけのべ自然学校

記録によると明治45年(大正元年)に明延鉱山明神索道5750m設置、工費3万9373円80銭、 1ヶ月運搬量1000トンとある。当然だがそれ以前は牛馬という超非効率な方法で運搬されて いたわけだ。

スタート地点のあけのべ自然学校に到着。事前に連絡もせずにやってきて、 あつかましくも駐車のお願いをするが快諾をいただく。そこのN先生からさきほどの鉄索の 話もうかがう。そのルート下にはたくさんの鉱石が落ちているだとか、時には人間も乗っていたりして、 底が浅いバケットなので墜落した人もいただとか・・・。

9時40分スタート。第一浴場を過ぎて民家が途絶える。川に沿った舗装路を歩いていくと左に大規模な ズリ斜面、そして右には封鎖された坑口と踏み切りの信号機。 足元には線路は無いが、写真に書き込んだ黒線のようにあったのだろう。 その信号機には『踏切警報灯 昭和44年4月製造 京三製作所』とある。京三といえば 鉄道信号では老舗のメーカーだ。ただ、定格電圧10Vってのはいかにも中途半端だと思うのは 素人かな。
道路なのに踏み切りが坑道でなにやら工事が

その信号機の反対側にあるズリ斜面の真下にも坑口があるのだがなにやら工事の真っ最中だ。 作業員に聞くと、なんでも崩れている所を直しているのだとか。観光坑道でもないし、いまさら利用されないはず なのにメンテだけは続けているということだろうか。

さらに奥に進んでいくと三叉路に出会う。ここには何か施設があったと思うような平坦地と、 浄水施設があった。右の道は『林道 七拾枚線』とある。一の段へは左にある林道を進むのだが、浄水施設の右奥には 封鎖されたトンネルがあった。足元には線路も残っている。
浄水施設を左折明神トンネルの入り口です

上の窓から覗き込んでみると鉄扉の奥にはさらにブロックの壁があって奥は見えない。 実はここを一円電車が通行していたのだ。出発の駅はさきほどのズリ斜面の上にあって、 一旦短いトンネルを抜けて地面を走った後、このトンネルで神子畑に抜けるのだった。 返す返すも実物に乗れなかったのが悔やまれるなあ。

浄水施設からは未舗装の林道となる。小橋があってその先には屋根からぺしゃんこになった 廃屋がある。この小橋までは車で来れそうだ。話に聞いていた鉄索だが、明治のものだから 現物は残っていなくても、その基礎ぐらいは残っていると思っていた。が、ここまではそれらしきものは無し。
谷の分岐を右に行くすぐにお堂跡がある

廃屋のさらに奥に谷分岐がある。そこには墓石もあって、明治17年、大正11年、、昭和2年など、比較的新しい年号が 彫られていた。そこから右の谷を行くのだが、橋が架かっていたのか石積みの跡がある。 写真でもわかると思うが石積みの幅の道が存在していたというわけだ。けっこう広い。 やはり牛馬が通っていた証拠か。

右の谷を行くとすぐにお堂に出会う。外観はしっかりとしていたが、内部は荒れていて 何がお祀りされていたのかわからない状態だった。それより驚いたのはその先に すっくと立っている電柱だ。
と言いつつ見逃すのが常右の斜面をよじ登る

薄い鋼管を何段か繋いで一本の電柱になっている、パンザーマスト柱と呼ばれるもので、 クレーンなどを搬入できないところでも設置できるというものだ。 鉄塔などに比べると強度は望めないが、山中ではよく見かけるものです。 一の段へはこいつを追いかけるように登っていけば大丈夫ってわけか?

ところがそうは問屋が卸さない。それまで順調にあった道が消失している。 行く手には小滝が連続して、いかにも危なげな感じがする。 「これって行けそうにないよなあ・・・」ならば、右斜面をよじ登って 滝を高巻きすることに。なかなかきつい登りで、さすがにここは牛馬には無理だろう。
石段の平坦地がある谷に下りたが・・・

登ったところは幾段にもなる石段を伴った平坦地だった。 あきらかに人工物である。耕作地だったのだろうか? ここも一の段と呼ばれるエリアの一部と思えた。 さらには、先ほどの谷に続いているはずの電柱もここにある。 ってことは、谷からエスケープしたここがメインルートだったのかな?

谷に下りたがその先には電柱は見えない。しかも谷は細くて急だ。 地形図で見ると先ほどの滝のある谷と違う枝谷に入ったようだ。 左の斜面をよじ登ると予想通りに電柱があった。
植林が割れた空間に電柱がやがて広い雑木林に入る

あとは植林帯の奥に続く電柱を見逃さずに登るだけ。奥に行くにつれ、 神社にでもあるような、どでかい杉の大木が現れる。 昔からこの一の段を見下ろしてきたのだろうか。そして、 ひろーーーい雑木の林に突入する。
きっと何かがあったと思える雑木の空間

峠はここを越えた向こうだろうか。それにしてもここは広い。しかもまっ平らである。 ここに山岳寺院があったと言われても違和感は無い。
寒風の中で食事ここが峠です

平坦地を越えると目的の峠が見えた。電柱はそのちょっと西上の所にある。 稜線上は寒風が吹きぬけていかにも寒いので、その電柱陰で食事をする。 氷ノ山に登っている矢問さんと無線がつながる。あちらはもっと寒いと言うが そらそうやろ。

食後、峠に立ってみる。13時05分。ほんとはここを起点にして稜線を縦走したかったのだが 時間が遅すぎる。さすがのM氏も「ここから帰ろうか」と弱気発言。 この峠から神子畑方向にはきっちりとした道もあった。電柱も見えている。 このまま下れば選鉱場まで行けるのだろうか?

実は峠にも電柱はある。しかし、それはいままと違い木柱で足元付近からばっさりと 切り倒されていた。その近くには絶縁碍子が散乱している。低圧のものではなく 高圧で使用するものだ。それが何段重ねかで耐圧の値が違ってくる。 少なくても10KV以上で送電していたのだろう。
836から下る広いところを抜けると谷になる

峠から離れて大屋町と朝来町の境界尾根を北上する。縦走はあきらめたと言いながらも その境界の延長上にある1022mの高岩峯に行けるだろうかと色気を出す。 836mの鞍部まで来た。地形図を見るとここからずーっと登りが長い距離続く。 しかも雨まで降ってきた。「やっぱりここから帰ろか」

広く歩きよい植林の中を下っていく。やがて谷に降り立ちそのままソマ道を下る。 この辺りから左に折れると、登りに使った電柱ルートに出会うはずだ。 そう思って谷から離れて左に移動してみると・・・。
ここが一の段の集落跡か立派な石垣だ

石垣に囲まれた巨大な円形劇場のような敷地に出た。 もちろん周囲は植林がされていてうっそうとしているが、 それが無い頃には人家、あるいは社寺があったと思える。 資料によると一の段には5戸ほどの人家があったとあるので、 ここがそうかもしれない。それも昭和10年代には里に下りたという。
懐かしいお釜苔むした石臼

周囲には陶器のかけらが散乱している。周囲を探索すればもっとそれらしいものが 出てくるかもしれません。 ここからの下山は登りでエスケープした谷をそのまま下ってみることにする。
滑り落ちそう

やはり危なっかしい箇所があった。M氏は怖いという神経が麻痺しているためか スイスイと下っていく。しかし、急斜面で片足しか乗せるところがないのに スイスイとはなかなかいかない。 へっぴり腰でなんとかクリアー。
工事のズリ斜面に戻ってきた

途中にあったお堂跡でコーヒーをすする。雨もやんだようだ。 あとは林道に沿ってある紅葉を愛でながら帰路につく。 あけのべ自然学校は15時25分着。 ここでもコーヒーをごちそうになる。 今回のコースで個人的に気になる分岐やら、稜線やらがあったので いずれまた訪れてみたい。

今回の一の段の地図は こちら(約100k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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