奥段が峰

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『神子畑』を参照していただくようお願いいたします。

2007. 6.16.  土曜日  晴れ  気温涼しい
段が峰の山塊は、そのどこにいても開放感いっぱいの高原歩きが楽しめますが、 特に奥段が峰(1080+m)は展望も良いし、やってくる人もあまりいません。 人目を気にせず静かな草原でのんびりと昼寝するには うってつけの所なのです。ここに来るには標高差の少ない千町集落からくじら岩コースで登るのが一番面白いのですが、 今日はまったく面白くないと予想される朝来市奥田路から登ってみます。

奥田路のほとんど終端付近まで来る。 『本家橋』の手前が広くなっているのでそこに駐車します。 ちなみに川向こうには『内水面漁業センター』という謎の施設がある。 写真の左手には地元の人が『びしゃもんさん』と呼んでいる神社があるのだが、 そこから始まる尾根を伝って登ってみようと計画をしていました。 麓から見ても植林されているのでヤブではないはず。9時35分スタート。

駐車ポイントから『びしゃもんさん』方向へ向かっているような細い舗装路もあるので、試しに 行ってみるとそれは単に墓地への道路でした。再度駐車ポイントから目を凝らして眺めてみると 写真の矢印方向に細い踏み跡が見えました。正規の参道ではなさそうですが、間違いなく上まで 続いています。
ここからスタートびしゃもんさん本殿

駐車ポイントから実質1分で神社へたどり着きます。左手に広い平坦地がありますが、 そこは植林されて薄暗い。右手には木造の本殿と拝殿、それと休憩用?の小屋があった。 休憩小屋は拝殿に向かって壁が無い造りになっています。板張りの床には二つのいろりがあって くつろげるようになっている。

拝殿には『本尊毘沙門天』という額が掛かっています。本来、毘沙門天は仏教の仏を守る四天王の 一人です。それが神社の祭神になっています。さらにその本殿横手にはいくつかの墓石が並べられていました。 う〜ん、どうやら、昔は寺院だったのがいつしか神社へと変わっていったのかもしれません。 小屋の裏手から尾根に取り付きます。
植林の尾根を登り始める717m付近

下草が無いので苦労せずに登れそうです。この付近にもいくつかの古い墓石が倒れたままになっていました。 時間がないので年号だけ見てみると元禄十二年(1699)の文字が読めることから ずいぶんと古い墓地跡だったと思われる。この付近ではあまりのんびりとしていられません。 というのもヒルの宝庫だからです。今日も念のために長靴で出動!!

地形図を見ると登りの尾根は一直線に、しかもほとんど傾斜も一定です。 植林の中なので展望はありませんが、木陰で風が吹き抜けているのでずいぶんと涼しい。 これがピーカンの登りならあっという間にバテているでしょう。 それでも汗びっしょりになっておぼつかない足取りで登っていると、621m付近で 蘇武林道を歩いているDQKさんからの無線がかすかに聞こえる。応答出来るタイミングでないので そのまま登り続ける。

10時40分、 717m付近はちょっと窪地のようになっていて雑木のジャングルになっています。 これよりしばらくは赤松の巨木が続く。地形図で現在位置を確認すると なんとまだ半分も登っていないではありませんか。登り切れるか不安になり、 このルートを選んだことにちょっと後悔する。

810mから植生が変わる

11時10分、810mピーク着。これまでは植林帯の登りだったが、ここからは自然林ばかりが 続く。傾斜もさらに急になるが気分的にはたいへんよろしい。 緑のステンドグラスを通過したような光が満ちています。
北方向に展望を得る
展望地がありました。目の前に笠杉山がそびえています。田路から千町へ通じる予定で 建設されたものの町境界で止まってしまった林道も見えています。 ここで気になるのが笠杉から延びている尾根。それは神子畑と田路の町界尾根です。 これをいつかは歩いてみたい。そのためにもじっくりと眺めて調査します。
次なる展望地
少し登ると今度は宍粟の山々が見えてきました。ここでお昼にしてしまおうかとも 思いましたが、いやいや、山頂までがまん。 しかし、ここが一番の急斜面。ズルズルに滑る黒土に苦労しながら平坦地にたどり着きました。
やれやれ平坦地に着いた山上庭園を歩く

ここまで来れば踏み跡バッチリ、テープ満載、道標ブラブラぶら下がり。 いたせりつくせりルートです。 ともかく奥段が峰へ歩いて行きます。
奥段が峰に着!空が高く見えます

奥段が峰へは12時05分着。だいたいよてい通りの時間が掛かりました。 見える方向こそ違え、ここも段が峰本峰に負けない大展望です。 さっそく食事の準備に掛かりますが、風がずいぶんと強くてコンロの使用が危ぶまれるほど。 岩陰に設置してお湯を沸かします。汗もみるみる引いていき寒いぐらいになったので あわてて乾いたTシャツに着替えます。

お湯の沸くあいだに展望を楽しみます。周囲はおなじみの山々ですが、 ここから見える変わったところというと竹田城趾でしょうか。 「えっ?そんなところが見えるん?」と思う方はここからぜひ探してみてください。 無線をつけると、蘇武岳のたぬきさん夫婦、那岐仙のOAPさん、TQFさんと繋がる。 どちらも快適な山のようだ。

フトウガと西段が峰を見ると、今や無用の長物となった風力発電の調査ポールが設置されたままになっています。 そして上空には猛禽類(ひょっとしてイヌワシ?ならば、風力発電施設を建設中止に追いやった張本人)が飛んでいます。風力発電の関係者が今日ここに来ていたら、この山上を吹き抜ける風に地団駄踏んで悔しがったことでしょう。 そして上空を優々と飛んでいるイヌワシをにらみつけたのではないでしょうか。

そんな想像をしながら、のんびりとすごします。誰もやってこないのでオカリナを吹こうと しましたが、これまた強風のためにきれいな音が出ません。 (オカリナの歌口に風が干渉するので音色もピッチも狂います) 仕方なく下山の準備にとりかかる。 いろんな下山ルートを考えていたのですが、そのどれもがもう一つしっくりこないので、 結局峠から下山することにする。
下山途中にも大岩あり峠の石仏にごあいさつ

千町と田路を結ぶ峠には13時45分。いつもと変わらず地蔵菩薩が迎えてくれます。 『天保十四(1843)卯七月吉日』左には『志主田路助ヶ谷要助(田路にある助ヶ谷に住む要助さん)』 この峠は『おおたわ』と呼ばれていますが、少なくとも田路では『千町峠』というのが 昔からの呼び名のようです。(今回も田路で再度確認しました。ただし千町での呼び名は未調査です)

この石仏は田路にある助ヶ谷に住む要助さんという人が寄進したものです。 現在田路の住所には助ヶ谷という字は使われていませんが、場所は特定できるはずですから 行ってみたら要助さんの足跡が辿れるかもしれません。

峠からすぐに鹿避けのネットを通過する。名前は判らないが背の高い草が踏み跡を隠している。 それをかき分けて進むが数十mで踏み跡は無くなる。 その無くなったと思われる地点からまっすぐ谷に下っていくとすぐに谷底にたどり着く。 たぶん昔からの峠道もこのルートで谷に下っていたはず。

谷には踏み跡があるので安心して歩ける。ところが途中からそれは無くなってしまう。 ほんとうは細い谷の左岸、右岸と道は続いていたのだが、その両方にネットが 設置されてしまったので、いつしか道もわからなくなってしまったのです。 したがって流れの中をジャブジャブと歩くしかない。ここでも長靴が正解だった。 三脚も立てられないので写真は無し。

林道との合流は14時25分。結局この峠道は3度ほど歩いたが、歩くたびに不明瞭になっていた。 昔は千町と田路とで年に一度お盆頃に道普請をしたという。その道も まもなく消滅することは間違いない。出てきた林道も同様の運命をたどりつつある。 造られたものの千町まで到達することがなかったため、利用もされなくて 廃道一直線の憂き目にあっている。

廃林道をテクテクと花などを見ながら下っていく。左下を見ると谷川が流れているのだが、 その渓流とこの林道のあいだに道があるではありませんか。つまり峠道が再度ここに現れたのです。 そこを歩きたいので斜面を下る。
棚田跡を下るすると墓石が

峠道は苔むした石垣が何段も続く棚田跡の中に入る。ヒルがいるかと思ったが 無用な心配だった。何か気配を感じてその方向を見ると、なんと墓石を発見する。 近寄ってみるとさほど古くなく近代の墓石のようだった。正面には家紋と『小松山武兵衛墓』。 横手には『明治廿年十月四日』とあり、やはり新しかった。それにしても小松山とは この辺では聞かない名字です。下山後聞いてみるとなんと相撲取りの四股名だという。

さらに下にも古い墓石があった。文字はほとんど読めず、1基だけ『正徳六年(1716)』の文字が 読みとれた。あのまま林道を歩いていたら出会えなかった墓石だっただけに、 ちょっとした奇跡のようだ。要助さんと出会える予感もしてきました。 棚田から林道に再度出て、そのまま駐車ポイントまでのんびり歩く。 駐車ポイントには15時30分着。
中田路の道沿いにあった石仏

田路は国道312号から田路川に沿ってある細長い集落です。 その国道に近い所から『口田路』、『中田路』、『奥田路』と三つある。 千町峠にあった石仏に彫られている『助ヶ谷』は中田路にある字でした。 その中田路の集会所近くにも数体の石仏があるのですが、その1体を見て驚いた。

大師像だと思うのだが、正面には『文化四卯天(1807)八月吉日』とある。 その横手にはなんと!『世話人當村 要助 宇八良』とあった。 探していた要助さんの名前をその出身地で発見したのです。 「要助はん、こんな所にいてはったんですか」

峠にあった石仏は『天保十四卯(1843)七月吉日』でしたが、ここのはそれより 36年前のものです。もし要助さんが20歳代でこの石仏を寄進したとすると、 峠の物は60歳にならんとする頃のものです。 自分の人生で2度も石仏を寄進するようなよほどの事があったのかなあ。

今回も山行きレポートから脱線してしまいまいしたが、個人的には面白い 発見が多かったので楽しかったです。

今回の奥段が峰の地図は こちら(約130k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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