妙見山〜大海山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『丹波和田』を参照していただくようお願いいたします。

2006.12.10.  日曜日  曇り時々小雨  気温寒い
この周辺の山塊は何度も足を運んでいるのでしばらくは訪れることもないだろうと 思っていたのですが、たぬきさんが牛坂で石仏を見つけたという!! ちょっとわかりにくいところだったのでさすがの私も見落としていたようだ。 そうなると見てみたくなるのが人情というものです。 せっかくですから周辺の気になるポイントをすべて見学してみましょう。

牧野大池をスタートゴールに設定。たぬきさん夫婦とTQFさんの4人で歩くことになりました。 旧中町に入る頃、正面には大きなシルエットで左肩に虹の出ている妙見山と、その右奥には 三角な大海山。天気も今のところなんとかなりそうな雰囲気だ。
妙見富士と呼ばれる妙見山右は京道、左は山道

牧野大池へ向かうが、県道は通らずに牧野の集落内の道を行く。 すると自然石で出来た道標が分岐にある。まずは最初のお宝見学だ。 一番上には地蔵菩薩を表す『カ』という梵字があるが、その下の二文字は判らず。 そして『右 京道 左 山道』と彫られています。その道標に従って山道を行く。

牧野大池の駐車場にはたぬき号が先着していた。話をしながら準備をしているとまもなく TQFさんも到着する。この辺は携帯の圏外だが無線で連絡が取り合えるので、来るんか、まだかいな、 なんて心配は無用です。8時25分スタート。
準備万端♪妙見山登山道を登る山麓は赤松林が広がる

駐車場の真ん前にはキャンプ場があって、その入口には登山道入口の標識もある。 ここから妙見山に登るのは初めてなのでわくわくする。 赤松の中を登山道が登っているが、足元には早くも鉱滓が転がっていたり、何かがあったのか 石垣が草むらの奥にあったりする。 右手の谷の奥を遠望すると坑道の入口(入角鉱山)が見えた。登山道はどんどん離れていくので 詳細はわからないが、鉱山跡大好きなので行きたいなあ〜!!

標高290m付近から南にトラバースする。すると林道の終点に飛び出て ここにも登山口の標識があった。ここからは暗い植林の中を歩く。 それもしばらくのことで、こんどはツバキの林となる。ご丁寧にその入口には 『椿の林』と看板がぶら下げられていた。

今日は体調が悪いのか、気温が低いのにもかかわらず汗がいつも以上に出る。 そのくせに足が前に出ない。でも口はいつも以上に動いてます。父たぬきさんとTQFさんはずいぶんと先に 行っているのに、私はフラフラと足元もおぼつかない。 ひょっとしたらリュックにくくりつけている長靴が原因かもしれません。
つばきの林を行く稜線先端にある展望台

実は廃坑を覗いてみたいが坑道に水が溜まっているので長靴を用意しました。 それをリュックにくくりつけているのですが、靴底が上になって私の頭とくっついている。 まるで靴底を枕にしているようにも見えるし、頭を踏んづけられているようにも見える。 これが体調に悪さをしているように思える。が、これ以外取り付けようがないので辛抱する。

急登りをクリアーして稜線にたどり着く。山頂とは逆方向に20mほどで展望台があるので そこへ行ってみる。眼鏡が熱気で曇っていたのもあるが、地面から出ていた杭につまずいて 前方向にもんどり打って倒れる。膝を打ったのも痛かったが、 あやうくデジタル一眼を地面に打ち付けるところであった。 これも長靴の怨霊のせいか?

展望台からは南方向がよく見える。雄岡、雌岡山はもちろんだが、加古川の 平荘湖横手にある飯盛山もクッキリ!!それらを見て気分も回復してきたようです。 長靴の怨霊に負けないように慎重に歩きましょう。Uターンして 山頂を目指します。
妙見山頂上
妙見山山頂には9時53分着。標高692.6m 二等三角点。東方向は樹木で隠れていますが、 感覚的にはさきほどの展望台以上に広く周囲が見渡せるように思えます。 タイミング良く山南町のJCLさんからコールがあり応答するが、 風は冷たくてじっとしていると震えてきます。 無線を母たぬきさんと交代して周囲の山々をカメラに収める。
妙見山頂上。北から西方面の展望。虹があるのわかります??

見ると千が峰はすっぽりと雲の中に隠れている。笠形山の頂上は見えたり隠れたり。 加美町にある金蔵寺も見える。 うっすらとではあるがここでも虹が千が峰をバックにして現れていた。 今日の山行きはこれで終わりではない。この妙見山はついでに登ったわけでメインイベント はこの後に待ちかまえています。

その一つであるカバ(樺)阪へ向かう。妙見の山頂から登ってきたルートをちょっと後戻りすると 『牧野→  下山ルート』という標識と、『加美町青年の家』と書かれた白いポールの二つの 目印がある。そこを北方向に下っていく。
ロープを伝っての激下り目的地は遥か向こう

古いがそこにはロープが設置されてます。というのもそれを持ってでないと下れないほどの激下り の斜面なのです。ただでさえ落ち葉は滑りやすいのに、今日はそれが雨に濡れているものですから おのずとロープを握る手も力が入る。それでも滑るのはやはり長靴のたたりか?

これでもこのルートは加美町青年の家から妙見山へ登る正規ルートだったらしい。もちろん 昔の話で現在は稜線上のどこが青年の家への分岐かも不明だ。 一箇所前方が見えるポイントがあり、そこから次なるピークである大海山を見るが 遥かな距離に感じる。ううう、背中も長靴が重い・・・。

滑りやすく危険な下りがようなく終わって鞍部に着く。やれやれと思ったらこんどは 登りが待ってます。ここまで植林が主体の稜線でしたが528mピーク付近から ようやく雑木の割合が多くなってきました。 そういえばMTBでこのコースを来たときもこの辺から乗れ始めたんです。
カバ阪へ着きましたそこにある石仏

雑木の尾根の細いトラックを下りきった所が樺(カバ)阪です。11時30分。 左手は5mほど切れ落ちていてそこは舗装林道の終点になっています。 右下方向には牧野大池へ向かって道があり、正面には牛坂へ向かって道がある。 そして峠を示す道標の石仏も存在しています。

いつもならちょこっと見て、写真を撮るだけですが、今日はじっくりと観察します。 舟形光背に地蔵菩薩の立像。細い目に真一文字に結んだ唇。手に持っているのはなんだろう? 経文かな?光背部分の 向かって右側には『右 まきの 左 たんば』と道標の役目を担っている。 問題は左側だ。『為 晴光院芳誉蓮宝貞感大姉菩提』『大山園田 逸女』とある。 さらに石仏の横側には『施主 豊部 杢右ヱ門』

年代が彫られていないが施主に名字が無いことから明治以前、江戸時代だと思う。 『為 晴光院芳誉蓮宝貞感大姉菩提』は浄土宗の戒名。 見ると晴光院という院号、さらに誉号、道号などもある最上級の戒名です。 相当に徳を積んだ人か、財力のあった女性かもしれない。 それほどの戒名を持った女性がなぜこの樺阪に石仏として祀られたか? そのヒントになるのが『大山園田 逸女』の文字です。

『左 たんば』に向かっていくと 現在の篠山市に大山という所がある(国道176号線沿い)。そこに園田家という 大庄屋があった。『大山園田 逸女』とあるのは、そこに縁のある女性ではないだろうか。 亡くなったのがこの豊部だったのかも しれないが、故郷の大山に向かうこの峠に石仏として祀られたのかもしれません。 (以上は私の想像で根拠はまったくありません)
大海山登りはじめにある縦坑座るところもない頂上

樺阪から大海山(おおみやま)に登ります。 踏み跡もしっかりとあり登りやすいルートです。その途中にあるのが 写真の縦坑跡。落ち葉やら土が入口の半分ほどを隠しているが、その横半分は深さのわからない真っ暗な穴 である。なぜこんな所に、しかも縦に掘り進んだのか? ひょっとして別の所から鉱脈に沿って掘り進んだところ、ここに飛び出てしまったとか。 あるいは空気孔かもしれない。不用意に近づいた鹿とか猪が落っこちているかも。

北摂深山からかねちゃんのコールが一瞬だけ聞こえる。その後応答はなかったが 向こうは雨で撤退したとその夜に聞きました。こちらは 山頂の手前で踏み跡もなくなり、あとは激斜面を木々を掴んで登る。 またまた汗まみれになって大海山の山頂となる。12時05分。 四等三角点、標高551.8m。ポツリポツリと雨が降っています。 展望もないし、周囲は背の低い松が生い茂り、座る場所もないがお昼ご飯にする。

12時35分下山開始。今度はさらに北にある大見坂へ下ります。途中には二つのピークが ありますが、二つ目は送電線鉄塔があるので展望は良い。 ところが小雨のために期待の展望はなかった。それどころか送電線から ブーン、ブーンとうなるような放電の音が不気味だ。

TQFさんがGPSを持っているのでわかったことだが、地形図にある大見坂と 大樅のある実際の峠とは位置が違っていたのです!!実は大樅のある峠の手前に小さな鞍部があった。 「ここはなんやろ?」と不思議に思ったのだが、そこが別途地図の『H』地点だった。 13時10分、大樅のある大見坂着。
モミの巨木がある大見坂山南町側にある石仏えらい福耳ですなあ

大見峠の加美町側にも石仏があるというので100mほど下ってみたが それらしいものはなかった。ひょっとしたら先ほどのH地点から下ればあったのだろうか? ちょっと残念だったが気を取り直して山南町側の石仏を見に行く。 これはちょっと下るだけでフラットなテラスがある。

そこには立派な石組みの祠があり、プラスチックのトタン屋根が付けられていた。 そこにあるのが樺阪同様、舟形光背の地蔵菩薩だった。 ただし、こちらのは全くの無銘でどこを探しても文字がない。 持物は錫杖と宝珠のように見える。おちょぼ口で福耳が特徴です。

ここからが問題ですがとりあえず峠道を下っていく。そのまま峠道を下りきってしまうと 植林内の林道になって山南町の西谷集落になってしまう。 目的は谷を隔てた牛坂林道終点にたどり着きたいのです。 「この辺から下ってみるか!」適当に言うが、激斜面でチョイ危険な感じだ。 「林道の終点が見えるわ」と、泥だらけになりながらそれぞれに下りきる。
坑道に入ってみる林道には鉱滓が

『スケクロ』と標識のあるこの林道の終点にも鉱山跡がある。 ここの坑道は広く大きいので手堀ではなく機械によるものであろう。 覗いてみるとまっすぐに延びて50mほど先で右に曲がっている。 坑道の中は水が溜まっている。そこで長靴の出番となる。 ライトとカメラをそれぞれ持ってジャブジャブと入っていくが、いかんせん 水深が長靴以上にあった!!「これ以上行けないわ!!」とみんなの期待を 裏切る結果となる。

すごすごと引き返し登山靴に履き替える。 なんのために長靴を担いできたのか? まあええわ。気持ちを切り替えて三つ目の峠である牛坂へ向かいましょう。 林道はほとんどアップダウン無く牛坂へ向かっていきます。 そしてこの墓石が一基だけポツンとある。こんどはこいつをじっくりと拝見。 『透関自徹信士』『寛保二戌(1742)六月□日』『俗名多田八郎兵衛』

『透関自徹信士』も戒名だが、樺阪のものよりは格下である。『透関自徹』とは 課題とか困難を逃げることなく通過することをモットーにしているとでも訳しましょうか。 さらに興味を惹くのが俗名の多田八郎兵衛です。 これで思うのは加美町にある多田という区域に住んでいた人かもしれませんし、 想像を広げると北摂多田銀山付近から出稼ぎ?に来ていた多田姓の鉱山技術者かもしれません。 どちらにしても鉱山関係者であったことは間違いないでしょう。 (以上は私の想像で根拠はまったくありません)
林道沿いにある墓石牛坂に到着ガードレールに隠れていた石仏
牛坂には14時25分着。いや〜、ずいぶんと歩きましたが、思えばここの石仏を見るための 今回のコース設定でした。その石仏はガードレールの裏に隠れており、さらに穴ぼこにはまっているようにも見える。 これでは林道側からは見つけられないはずだ。

自然石の原型をとどめた道標の石仏だ。上部には地蔵菩薩の立像。 両手に持っている物は不明。表情は笑っているように見えます。 その下には『左 ひめじ道』『右 瘁iすぎ)原 かなく□』とある。 杉原は加美町にある字だが、この『かなく□』がどこなのか謎です。 不明の文字の付近が剥離しているのも判読困難な理由だが、ご存じの方があれば お教え願いたい。
ここにも入ってみる茶屋跡の石垣

この牛坂にも鉱山跡がある。先ほどの坑道とは違い、人が一人横向けにすりながら入るのが 精一杯だ。入るとすぐに下方向に延びる縦坑となっているが大海山の真下を 網の目のように坑道は延びているらしい。

ここから樺阪まではほとんど水平なので楽勝です。 途中に茶屋跡と呼ばれている石垣ポイントがある。 茶屋があるぐらいだからそこそこの往来があったのでしょう。 現在は樺阪も牛坂も林道で登って来れますが、この水平道だけは昔ながらの 古道を保っています。もしここが林道になってしまったら・・・? それこそ歴史の遺産の破壊です。

再度、樺阪の石仏を拝見して、そこから『まきの』と書かれた方向に下っていく。 少しわかりにくいが、それは山腹をゆるやかに巻いていく。 誰も利用していないので徐々に自然に帰りつつある。 所々に谷に降りる道も見えるがそれは無視して山腹を巻こう。 やがて広い斜面に出る。
斜面は鉱滓だらけ!!寺跡??子供達の石仏

15時ジャスト。そこは金堀鉱山と呼ばれている地点。広い斜面いっぱいのに 鉱滓(カラミと呼ばれる精錬時に金属から分離するカス)がある。 それらは銀を含む銅の鉱石だったらしい。 踏むとカランカランと乾いた音を立てる。 この上で精錬所、さらに上には坑道があるのかもしれません。 (さらに上は茶屋跡です)

その斜面を横切るとこんどは杉の大木のあるテラスがある。そして、石仏も数体ある。 周囲は真っ暗なので一人で来るにはちょっと薄気味悪い。 場所から考えても鉱山関係者のものと思える。 が、石仏の光背に彫られた文字を見ると驚くべき事実がわかる。

それらの石仏は 『寛保三天(1743)』『延享三寅(1746)』『寛保元辛酉(1741)』と似た年号が 羅列している。さらに『童女』『童子』などの文字がある。 つまり子供のお墓なのだ。流行病かなにかで亡くなった子供達かと思ったが、どうやら 鉱山で働かされていた子供達のようだ。童子というと幼児と思いがちだが、当時の童子とは 15才までの子供を指す。手堀の坑道は狭くて大人には作業が困難なので 子供が入っていたのではないだろうか。現在も世界各地で子供が同じような仕事をさせられていると 聞いたことがある。(以上は私の想像で根拠はまったくありません)
植林内に道あり林道に出ました

家に帰って石仏などの写真を見ると満足に写っている物が少なかった。 どうも気が急くのか、落ち着いてシャッターを押すことができない性分のようだ。 またいつの日か行かなくてはならないだろう。 植林の道を下り、牧野大池には15時40分着。
白い部分は表面が欠けたところ

後日たぬきさんが調べたところ、多田繁次氏の著書に『かなくらじ』と書かれていたそうです。 確定ではなかったので書きませんでしたが、『かなくら』ではないかと思っていたのです。 その下に『じ』もあったのですね。そして 『かなくらじ』とは多可十景にもある金蔵寺のこと!! あ〜っ、喉のつかえが取れました。

今回の妙見山〜大海山の地図は こちら(約145k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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