竜ヶ峰〜古高松

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『比延』を参照していただくようお願いいたします。

2006. 1.22.  日曜日  晴れ  気温寒い
今日は久々の単独山行きとなりました。したがって当然のようにヤブ低山を 目指すことになります。激ヤブの場合お相手がいると気を遣ってしまいますからねえ。 単独だと無理して突き進むもOK、ルートの変更、追加、省略も思いのまま気の向くままで〜す。 登る山はいろいろと候補はあったのですが西脇の古高松(金城山)としました。 ここは前回2004年の9月 に長明寺からのピストンで登っています。

鹿野町と塚口町の境にある墓地の駐車場をお借りします。実は この墓地から真南に向かって谷が延びていています。2001年の9月に 数曽寺山塊縦走の 帰路としてこの谷道を利用したのですが、その時に発見したのが西脇市教育委員会の名前の入った古いハイキングコースの道標でした。 今回時間があればその周辺も探索してみようと思ってます。

墓地の駐車場に入りかけたとき真新しいプレートが目に飛び込んできた。一瞬だったがそれには『・・・金城池ハイキングコース』 と書かれていた。ってことは、谷道にも同様に新しい道標が設置されていそうだ。 誰かがハイキング道を復活させているようです。9時10分スタート。 墓地を抜けると車一台が通過できるだけの未舗装林道に出会う。これがその谷道だがこれは帰りに利用するために 横目で見るだけ。その出合いポイントからいきなりヤブに突入して斜面をよじ登る。
墓場からスタート!!(白矢印で登る)

植林の所は倒木があるのでそこは避けて雑木の間を登っていく。 当然ながら道はなく激登りの連続になる。木を掴みながら腕力だけで登るしかありません。 上方にシダが見えるとそれを避けて右に左にと方向を変える。 標高差にして100mほどで尾根の先端になる。そこからはゆるやかな登りが続いているのが見える。

大汗かいたのでちょいと一休み。上に向かってうっすらとした踏み跡が残っているし尾根も細いので 地図も出さずに突き進む。 すぐにピークだと思っていたがいつまでも登りが続くので地図を取り出してみると なるほど案外と距離がある。ピークが近づくと小さな岩場があって上に立つと展望がよろしい。 東から北方向に開けています。西光寺山の北斜面は真っ白になっているが、雪ではなく霜のようです。 播州清水寺のピーク付近にはなにやら建物らしきものも見えていました。 写真を撮って満足していたが、その先にはさらなる大展望が待ちかまえていた。
ここも展望が良かったがちょい上がさらに良かった!!

竜ヶ峰の手前にある展望岩

西から北方面に開けている。足元は西脇の市街地と加古川の流れ

先ほどの展望のよかったが、この岩場はさらに良い。飯森と笠形の間にある高坂峠の向こうに 白く見えるのは生野の段が峰方面だろう。 改めてここで写真を撮り直す。多少は樹木が邪魔をしていますが大汗の代償に値する大展望です。 ちょっと飛び出たフラットな岩があるのでそこに立ち、後ろの大きめの岩の上に カメラを置いてセルフを撮る。この岩の周辺だけなにか意味ありげに木々がないのが ちょっと気になった。

古高松から北へ延びる尾根にはいくつかの小ピークが点在している。 その最北のピークがここからわずかに登ったところだった。 さらに歩いて地形図に表記のある333mのピークには10時20分着。 ここには思いも寄らぬお宝があった。それは20cm四方で高さが1mほどの石柱だった。 真ん中ぐらいで二つに折れてしまっていて上の部分は地面に横たわっている。抱き起こしてみると その四面共になにやら文字が彫り込まれているのですべてをデジカメに収める。

それにはこうあった。
 
 (正面)東   大降雨焉其喜可知也  於是勤子石以道後之
     南   民生於戯功徳不可忘  此謂賽神碑
     西   文政九丙戌首夏吉日建立
     北   文政発未八月五日祈  旱於此  神明有感万
詳しくと説明しろと言われると困りますが、漢字だけを眺めていてもだいたいの意味はわかります。 文政発未とは六年(1823)のこと。その年は干ばつであったため、この山で八月五日雨乞いの 祈りをしたところ、大雨が降り喜んだ・・・・・中略・・・・・この功徳を忘れないために石碑を神に捧げます。 翌年の首夏(四月)吉日に建立。
竜ヶ峰にあった石碑古高松まではアップダウンが多い

折れた上半分を持ち上げてみたが、全体では5〜60kはあるだろう。 昔は道があったにしても急な斜面を持って上がるのは並大抵ではなかったはず。 これほどの石碑があるのだからきっとピークの名前もあるはずだと勝手な確信をして、 下山後にあちこちと聞き取りをすると最終竜ヶ峰という山名を確認した。 頭に水に関係の深い竜の文字があって、まさしく雨乞いの山にふさわしい山名です。

興奮を抑えて古高松を目指す。見るとそこまでにはトンガリピークがいくつもあって アップダウンがきつそうだった。実際にアップダウンもさることながら シダヤブの深さのほうがやっかいだった。何度かつまずき、一度などは倒れた目の前に ナタで切り落とされた鋭く尖った小木の切り株があってヒヤッとする。

正面には古高松のピーク、右にはアンテナ山、左には大坂山と459ピーク。 徐々に大きくなってくるそれらに励まされながらようやく古高松に着く。11時40分。 標高399.3m。三等三角点。 なんか、身体中がシダの胞子やらホコリにまみれているような感じだ。
古高松(金城山)頂上種字の彫られた石板

三角点の横手には白い角柱が倒れている。ずいぶんと古いそれには『最高峰 金城山頂上 海抜399.3m』と 書かれてあった。これまでもそうだったが、何人もの人にこの山名を聞いた限り、『高松』とか『古高松』という 名前は言っても金城(きんじょう・かねしろ)山とは誰も言わなかった。いつから金城山の 名前が使われるようになったのか知りたいところである。

三角点より少し西には種字の彫られた石板が無造作に地面にある。『キリーク(十一面観音)』『ベイ(毘沙門天)』 『カーン(不動明王)』は麓にある長明寺でお祀りされているの三尊のこと。 法道仙人がこの頂上にお寺を造ったという伝説を証明するような遺物だが、改めて周辺を眺めてみると 立木さえなければ割と広い平坦地なのがわかる。

ほんとうならもっと先の方でお昼にしたかったのだがここで済ませることにする。西方向が見える展望地で 食べたものの風が冷たくて寒かったのでコーヒーは雑木の中の三角点横ですする。オカリナを吹いて無線もする。 たぬきさんご夫婦は私の薦めもあって、数曽寺谷の西にある岩尾根を登っているようだった。 膝の具合が悪いので最終の鉄塔から数曽寺峠へ降りて下山するそうだ。時計を見ると12時45分に なっている。私も下山を開始する。

前回登ったときに目を付けていた南東の尾根を下っていく。 このルートはきれいに刈り払われていて、たっぷりとあるマーキングも必要のないぐらい 快適なルートです。登りは道のない藪でも、下りで道迷いや事故の危険のないノーマルトラックを利用するのは セオリーと言って良いでしょう。
下山路は超快適

降りかけてしばらくしたころ、三田のTQFさんから無線のコールがあった。 これ以上下がると無線も繋がらなくなるので立ち止まって応答する。 タイミング良くたぬきさんも聞いていたので三局で話をする。 たぬきさんはちょうど送電線鉄塔に着いたらしい。私の立っている所から 真っ正面に位置する鉄塔だ。双眼鏡で覗いてみるが立木が邪魔で人影は見えない。

TQFさんは自宅のPCでカシミールを開いて我々の位置を確認しているみたいだった。 無線を楽しんだのは良いけれどすっかりとスローな山行きになってしまいました。 2局にお別れを告げて下りを続けます。
下山路からも瀬戸内海も見えたりする

降りたったところは無名の峠。13時35分。 ここも2004年の12月 に訪れています。その時にはなかった新しい道標が設置されていました。右に下れば金城池ですが、そこはゴルフの練習場の敷地内のはず。 昔、そのゴルフ練習場から古高松へ登りたくて来たことがあるのですが、入るのがためらわれるような雰囲気だったので このルートは歩いたことがありません。今は練習場の中を歩いても問題ないのかな? また今度歩くとして、今日は東へ下っていきます。
地図のD地点にある無名峠に着くなんてええ道なんや!!

MTBで駈け下りたくなるそんな道です。歩いているのがバカバカしくなるほどの見目麗しきシングルトラックに 思わず寝ころんでみて路面の感触を確かめたりする。ちょっと道悪の所もありますが、それもアクセントとなっていて よろしいのではないでしょうか。 小さな川を二度ほど渡ったら谷の本道と出会います。ここにもきれいな道標がある。 右(南)は昭和池の表示が、左(北)は鹿野町の表示。

南にある数曽寺峠にたぬきさん達は降りてくる予定です。ならば峠に迎えに行ってみましょう。 ここから峠までの途中のどこかには『行者塚』という行き倒れになったお坊さんのお墓があるそうだ。 道ばたでないので見つけることは出来ない。

峠についてしばらく待ってみたが降りてくる様子がない。無線で呼びかけてみるとすでに峠から数曽寺谷を 下っているということだった。残念ながら一足違いのようでした。せっかく峠まで来たので 時間があればここから大坂山へ登ってもよかったがそれも遅いので引き返すことにする。
石仏をお祀りした祠のある分岐地蔵菩薩かな?

さきほどの三叉路分岐よりちょっと北に祠がある。ここも三叉路の分岐になっている。 祠の正面に回ってみて中を覗いてみる。真っ茶色に錆びたトタンの屋根だけが残っていて、 まわりの壁板はすべて腐って無くなっています。中には道標の石仏がありました。 『右 山口くめ(写真の金城池への白い矢印) 左 やま(青い矢印)』となっています。さらに横手には『天保十一(1840)』 反対側には『西国三十三』と彫られています。やはりこの谷道は古くからの生活道であったとともに、 西国霊場の播州清水寺への道しるべでもあったようです。

この道標石仏以外にも古い道標が残っています。それは西脇市の教育委員会が設置したハイキングコースの 案内板です。山口方向には『金城山スソオジハイキンコース』青い矢印の道ばたには『塚口新池裏山コース』という 案内板があります。塚口新池とはゴールデンバレーゴルフ場のコース内にある池のことです。 多田繁次氏もこの新池のほとりにあるハイキングコースを歩いたという記述がありますから この道のことではないでしょうか?

時間がないので5分ほどこの道を歩いてみましたが、倒木も下草もなく路面のしっかりした良い道で、ずっと奥まで続いています。 誰かが今でもなにかに利用しているんかなあ??よし、今度はこの道がどこまであるのかをじっくりと究めてみましょう。 すそうじ川は所々が伏流になっているので流れている所は澄んだきれいな水になっています。 ちょっと塩辛い顔をそれで洗ってさっぱり。誰にも出会うことなく墓地の駐車場には15時05分着。

雨乞いの石碑のあったピークのことが聞きたくて鹿野町にある安楽寺を訪れてみました。 「私より近くのMさんがくわしいからそっちへ訪ねてみなさい」と教えてもらい、 町の世話役などをされていたというMさん宅へ行ってみる。 しら坂トンネルの入口付近に設置されている『婆婆岩由来』の案内板をご存じだろうか?Mさんはこの案内板を書かれた人で、周辺の地理やら昔の出来事に詳しい人なのです。

そのMさんから教えて頂いて竜ヶ峰の山名も確認が出来たというわけですが、 戦後まもない頃まで雨乞いはされていたという。Mさんは石碑の存在を知らなかったので、 雨乞いの儀式はピークではなく、ちょっと下にあった大展望の岩場で行われたのではないでしょうか?あそこなら岩が火床の 代用にもなったでしょうし(あくまでも想像ですけど・・・)。


今回の竜ヶ峰〜古高松の地図は こちら(約160k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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