賀野権現古道

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『寺前』を参照していただくようお願いいたします。

2006. 5.21.  日曜日  晴れ  気温さわやか
旧大河内町で聞き取りをしていた時のことです。 「ここから賀野(鹿谷)権現まで山越えの道があって、昔の人はお参りしてた・・・」という 話を耳にしました。賀野権現とはどこのことでしょう?それは雪彦山の麓から雪彦林道をちょっと登った所にある賀野神社のこと。 地形図で確認するとどこをどう通るのかわからないものの、距離も高低差も相当なものです。 もし道が残っていれば参道の遺物なども発見できそうな感じがする。

現に大河内の掛ヶ谷の中程には権現への道を示す石の道標も残っているらしい。 さらに、熊部、我孫子で聞き取りをするが、確かに道はあって、昔はその古道で大勢の信者がお詣りを していたと言う。それらを元に机上で計画をたてたが単独では到底無理です。 そこで、ヤブ山のエキスパートである大柿さんに同行を頼んでみると快諾をいただく。

山ヒルの出現もあり得るのでもう少し早い時期に歩きたかったがお互いの都合とか、天気などで この日になってしまいました。夢前の役場に7時半の待ち合わせをして一路賀野神社へ向かう。 今日の計画はこうだ。大河内の掛ヶ谷から神社を目指すのではなく、道が見つけやすいと思われる 逆方向に歩くことにする。掛ヶ谷に到着後は雪彦林道まで登り返し、そこにデポした車で 神社へ帰るというものです。(この林道を使った周回は大柿さんのナイスアイデア!!)

ということで、回収地点に大柿号を置いてやまあそ号で賀野神社へ戻ります。 久しぶりに雪彦林道を走りましたが全舗装で標高もあるので景色も良く快適です。 これも大柿さんの提案ですが、賀野神社の境内から古道に取り付くのではなく、 別途地図のP2地点から神社の真上を通過しようというものです。
賀野神社から見る雪彦

というのも、神社から南に行くと大河内へ向かう古道ですが、神社から北へ向かうと 宍粟市一宮からの参道になるのではないかと予想されるからです。わずかな距離ですが、P2からスタートして その古道の余韻を確かめてみたいという欲求があります。 そのP2地点には1台の軽トラックが止まっていて運転席に不審な男性が一人。

準備を済ませて9時05分スタート。稜線に入ってすぐに変な物を発見。 それは鳥の入った鳥かごが木の枝にぶら下がっていて横にはラジカセがある。 鳴き声で自然の鳥を誘って鳥モチで捕まえる装置です。 大柿さんが言うには鳥を捕るには県の許可がいるそうですが、 あの不審な男性ははたして許可書を持っているのか・・・・。

稜線には思った通り明確な道跡が残っています。はたしてこれは参道なのでしょうか? あるいは単なる山仕事の道跡なのでしょうか? その答えはすぐに出ました。
A地点にあった道標

鳥かごから5分ほどで鞍部(地図のA地点)に着く。そこを右に下れば賀野神社です。 雑木が無ければ社殿が見えるほどの距離のはずです。さらに その鞍部には半分地面に埋まった状態に直方体の石柱がありました。 その表面を見ると指さしで『かんべ』と彫られています。

私にはなんのことか判りませんが、大柿さんはすぐにピンときたようです。 『かんべ』とは宍粟市一宮町にある神戸という地名のこと。 つまり一宮からも参道があったという証拠です。 大柿さんのお父さんのお話では昔は実際に牛を連れて一宮からこの賀野神社まで お詣りに来てお札をもらって帰ったらしい。そのお父さんの話がこれで実証できた ということです。 一般のハイカーなら絶対に歩かないようなルートで、いきなりのお宝を発見してしまいました。

賀野神社の境内には大きな牛と馬のブロンズ像があります。 賀野神社は牛馬などの家畜の守り神として崇められている神社なので、先ほど言うように 遠路きびしい道にもかかわらず牛を連れてお参りをしたのでしょう。 神社の祭神をみると保食神(うけもちのかみ)の名前がありました。 豊穣の神で、その遺体からは五穀と蚕、牛馬が生じたという。

牛馬の神様の由来はわかりましたが、なぜ権現と名付けられたのでしょうか?この神社の近くには 廃寺になった金剛鎮護寺がありました。播磨のお寺にあってはご多分に漏れず法道仙人の開基となっており、 雪彦山大権現と号したという。明治の神仏分離令により廃寺になってしまったので 残された賀野神社のことを権現と言うようになったと思われます。

A地点から南へ進む。下り基調で途中に小さな伐採地も通過。稜線上は大きな支障もなく歩ける。 右下に林道がチラチラと見える頃、次なる人工物に出会う。9時32分。
B地点にあるお堂跡現在のお堂(地図の『い』)

地図のB地点にそれはありました。フラットな石の祭壇とお堂が建っていた証拠の 礎石が規則正しく並んでいます。屋根瓦も一箇所に積み上げられていました。 ここは明確な鞍部ではありませんが、板根と我孫子を結ぶ峠であったとともに、 権現古道の分岐でもあったようです。

お堂は消失したのではなく、現在は地図の『い』に移築されています。植林が無ければここからも 見える位置です。 初めてそのお堂を訪れた時『平成14年11月吉日 山頂より此の地に移す』と 書かれた板が掲げられおり、山頂とはどこの山の事を言っているのかと 思っていましたが、この峠のことを言うのだと判明しました。

お堂には2体の大師石仏がある。一体は天保四巳(1833)年、山之内村板根の定治郎なる人が 世話人と彫られている。板根が御大師様の石仏を作ったなら我々も負けておられんとばかりに、 天保七申(1836)年八月十日に我孫子の文五郎さんがもう一体を寄進して、 両村仲良く一対の大師像をお祀りしたと想像します。

我孫子へ下りましょう。踏み跡は最初の10mほどだけあって、そこから先はいきなり 不明瞭になる。斜面には倒木も多くて、古道がつづら折れになっていたとしても 確認できない状態です。仕方なく斜面を下りやすい箇所を選びながらクリアーする。 大柿さんはさすがにすごい。見る間に下っていき、早くも川を渡って林道を歩いている。 私はというと、ズルズルと斜面を滑り落ちている風。9時50分。 (降りたった周辺は山之内の古地図によると『王子の段』という所のように思える)
我孫子の林道にあった石柱熊部への谷道

この林道からだとどこからお堂への道があるだろうか。周囲を歩いてみる。 川を渡る橋の痕跡があればそこが古道のはず。大柿さんは飛び回るように あちこち探っている。石垣があったが橋があった痕跡は無さそうだった。 だが、足元に小さな石標を発見。古道を示す道標なのか、土地の境界を示すものなのか・・・。 『黍田』か、あるいは『亀田』かと悩んだが、後日明石のIXYさんより『亀田』と教えてもらう。

ここで時間を取ると完歩は難しくなるので先を急ぐ。我孫子から熊部へ抜ける古道は 地形図にも点線で示されています。その取り付きにはマーキングはありませんが 小さな谷川の右岸にはしっかりとした道があります。これなら楽勝で熊部へ越えられそうです。 谷が二手に別れて右手を進んでいく。ここにも石柱があったが表面は荒れていて、 文字があったのか無かったのかすら判らなかった。
『D』への激登り『D』からの激下り

水音が無くなり、ついでに道も無くなり、激登りの斜面が目の前に。 今は激斜面だが昔はつづら折れの道が存在したのだろう。熊部へ越える稜線(地図の『D』)には 10時45分着。木漏れ日がまぶしいぐらいに明るいが、周囲は植林で展望はない。 ここにも『亀田』の石標があった。やはり土地の境界を示すものかもしれません。

熊部への下りは激激斜面です。ほんとにここに道はあったのかと疑いたくなります。 横手には小滝もある。とにかく下る他はありませんから、大柿仙人に遅れをとらないように 追いかけます。左の大きな谷と合流すると熊部は近い。しかしここまで来ても道らしきものは ない。とうとう猪除けのトタン塀に突き当たる。右に回り込んで谷川を渡ると 大師の石仏があった。これは古道の入口を示すものだろう。11時15分。

正面の家におじゃましてお話しをうかがう。軽く80才を越えるおばあさんに話かけるが 会話がうまく成立しません。息子さんは60の半ばぐらいだろか。道の存在は知ってはいたが それ以上のことはわからないようだった。徐々にではあるが、確実に権現古道を知る人は 居なくなりつつある。以前聞き取りに来たときに聞いた話ではこの近くに茶店もあったらしい。

集落の北端、林道のゲートのあるところが古道の入口になる。丸太三本で作られた 橋があるが、これが激滑りの危険な丸木橋です。裸足で渡渉する覚悟でしたが、 今日はたまたま表面が乾燥していて渡ることができました。川を渡ると 左手に伐採斜面を見ながら登る。ここから稜線へ登りきってからお昼ご飯にしたかったが 涼しい渓流の横手で食べることにする。
伐採横を登る

というのも、この先大イバラ地帯が待ちかまえているので、それを抜けきるのに どれだけの時間が掛かるか予想がつかないからである。 そそくさと食事を済ませてイバラ帯を目指すが、その手前にあるミツマタの群落を抜けた所で 周囲をうろうろする。この辺に石の道標があると聞いたからです。 しばらく探してみたがあきらめる。

広大な伐採の斜面が目の前に広がっています。新たに植林もされていますが、手入れがされていないので 荒れた雰囲気は否めません。一度下見をしたので古道の取り付きは判っていますがそうでないと 難しい。さらにここからは強烈なイバラが待ちかまえています。 なんという名前のイバラかはわかりませんが、今までにないとんでもない奴です。

恐怖に震えながら一歩を踏み込んでみると・・・。あ〜ら不思議、誰かが刈った跡があり、 引っ掛かることもなくスイスイと登っていけます。これなら登ったところで食事も有りでした。 まもなく稜線鞍部という頃、足元に転がっている石に視線は釘付け!!
道標発見!!

よく見ると道は二股になっている。その角に石の道標が転がっていました。 伐採地の下ではなく、こんな所にあったのね。さっそく表面を見ると『左 あわの』と彫られている。 『わ』は変体文字では『り』と読む場合もある。すると『ありの』になるが、 帰宅後いろいろと調べてみても周辺にそういう字の地名は無かった。 いっそ『あわが』なら神崎町にあるから話は早いが・・・。 右もあると思ったが、石の形状や大きさからして左だけの感じである。 謎です・・・・。(この石の文字『の』は『可』の変体文字ではないかと、これまた IXYさんからアドバイスを頂きました。すると『あわか(あわが)』となりますね)

稜線鞍部の『H』には13時40分着。あのイバラ地獄を短時間で抜けられたのはラッキーでした。 しかしのんびりしては居られません。次なる『I』までも難路です。 この鞍部からの古道の入口は雑木が目隠ししているのでわかりにくい。一旦入ると明確な踏み跡がある。 谷の源頭部を回り込むように行くと大岩の手前で道が崩れている。それをクリアーすると 炭焼き窯跡になる。
左も正面もヤブ。右に逃げる(矢印は『I』)

そこから谷に古道はあると聞いていたが、実際はすごいブッシュで入り込むことは不可能。 谷の左岸は植林帯で歩ける空間があるので渓流を越える。予想通りなんとか歩けるが倒木などが 邪魔をする。徐々に谷から離れて右方向に流れていく。激斜面をよじ登ると 位置を確認出来る伐採地に出る。やれやれと思うは早計で伐採地にはイバラがある。 この辺が今回で一番辛い所だったかも。
『I』から今までの通過点を見る

このままでは720mピークに行ってしまうので途中から左に巻きながら『I』を目指す。 そして13時35分着。ここから直接ごんげんは見えませんが、『H』『D』『B』の 三つの稜線を登り返さなければなりません。参拝しようと訪れた人はここから眺めては 遥かに遠いと思ったことでしょう。本来なら古道のあるはずだった谷を覗くがほんとに 道があったのかと疑うほどのブッシュだった。
『J』まで来ました

ここから『J』までは超簡単のはず。というのも二箇所の標高はほとんど同じなのです。 きっと谷の源頭部を巻くように平行道があるはず。そう思って目を凝らすと期待通りに 平行道を見つけました。13時50分『J』に着。 『J』は夢前町と旧大河内町の境界。いよいよ権現古道も終点に近い。

いままでの稜線は比較的広くて大きな鞍部であったが、ここは狭くて二人で立っているのが精一杯、 しかも暗い。 以前僧屋敷の滝 に来たときもここを通過している。 その時あった『休猟区』のプレートが落ちて無くなって 金属のポールだけが立っている。足元の石標には『八四』とある。 思えばその時に熊部方向に踏み跡を見たのが今回の古道を歩く きっかけにもなっています。

古道にこだわらないのであれば、『H』から797.5mの三角点ピーク『柳谷』を経由すると 『J』までは楽勝に来れます。しかしなんとかここまでやって来れました。 後はここから掛ヶ谷へ下るだけです。道ははっきり?見えてます。 つづら折れの道でしたが、最初の3ターンだけ存在していてそれから下は 倒木だらけの斜面でした。もう慣れっこになっているのでそのまま駈け下る。
掛ヶ谷にある道標

掛ヶ谷には14時08分着。谷にあるのは林道だと思っていたが細い山道だった。 そして渓流を渡った所にドンピシャで石の道標があった。 それは横20数センチ、縦45センチほどのまな板状に『左 ごんげん 右 山三千(やまみち)』 とある。さらによーく見てください。右の文字の下は浮き彫りで指さしになっています。 なかなかのデザインやね。大柿さんはどっかと道標の前に座り込んでしまいました。

大柿さんは何度かここに来ていますし、この道標も目にしてますが、 まさかこの激斜面が古道跡だったとは思いも寄らなかったらしい。 いくら道標があってもここからだと確かに二の足を踏んでしまいます。 逆方向からの古道探査は成功だったわけです。
掛ヶ谷渓谷には滝がたくさん池の堰堤を行く

さて、車をデポしている雪彦林道まで最後の歩きです。 掛ヶ谷渓谷を遡って行くといくつかの滝に巡り会えました。 滝の両側にある岩盤には二箇所づつ、計四箇所の穴があります。 つまり昔はここに橋が架けられていたのでしょう。 向こう岸の岩盤にはステップも付けられています。 滝を越えてさらに奥には大きな池がありました。14時25分。

昔、この池の水を利用して水力発電を起こしたということを聞いたことがある。 発電所の施設はもっと下のほうにあったのでしょうか? この池だけ見るとそんなものがあったとは俄に信じがたいが規模の小さな発電だったのだろう。 湖面を見ると村人が昔に放したという大きな鯉が数匹泳いでいた。

堰堤を渡りそこから続く谷を遡っていく。谷には小径があって人の歩いた跡もある。 すると目の前に伐採斜面が。それと共に切り倒された木が谷を埋めている。 大柿さんはスイスイと倒木の上を一本橋を渡るように歩いていく。 下に落ちることを考えると真似出来ません。伐採は今も続けられているようで チェーンソーやらナタが置きっぱなしになっている。

点名『柳谷』の稜線に乗って10分で林道に飛び出す。15時ジャスト。 大柿さんのおかげで無事に完歩できました。多少エスケープしたものの権現古道も ほぼ辿れたと言っていいでしょう。熊野古道は世界遺産に登録されましたが、この 権現古道はすでに知る人とて少なくなり、残っている踏み跡も石の道標も藪に埋もれていくでしょう。 ひょっとしたら完歩した人間は我々が最後かもしれません。 夢前町と旧大河内町にとっては立派な遺産だと思うのですが・・・。

追記:この周辺を記述した古地図の熊部付近に『うつぼ関』という文字を見つけました。 現在の地形図に照らし合わせようとしますが、なにせ古地図のことですから むずかしいです。でも雰囲気からして、もしかすると『H』か『J』の地点かも しれません。そして古地図にはその『うつぼ関』から東の道を『あわが道』としています。 ならば『H』の石碑にあった『あわが』の文字とも符合します・・・。

今回の賀野権現古道の地図は こちら(約150k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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