はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『三岳山』を参照していただくようお願いいたします。 2004. 7. 3. 土曜日 晴れ 気温蒸し暑い
2002年の10月に
伏見山に
初めて登りましたが、その頂上直下に寺跡があったらしいことが後日わかった。
そもそも山名の伏見山(ぶくみやま)は古くは富久貴峰と呼ばれており、聖武天皇が夢で
霊告を受けたのを期にこの山中に千手観音を祀る一大伽藍を建立したのが始まりという。
隆盛を誇ったこの寺も保元・平治の乱(1156・1159)の戦火で荒廃してしまう。 その後南北朝の頃、この地の武将である萩野氏が龍ヶ城山に築城した時、夢のお告げに従って 観音像を現在の地に迎えて神通寺という寺を建立した。なお神通寺には圓満院、多聞院・・・などの 七堂伽藍があったというが、現在ここが圓満院と呼ばれているということはそれだけが残ったのでしょう。 (以上、圓満院にあった案内板からの抜粋) その圓満院に駐車してここをスタートゴールに設定する。今回はここから畑峠へ登り、 石仏の裏手から稜線を北へ辿って伏見山へ登ろうという計画です。 その取り付きをご住職に聞いてみると、鐘堂の横手にある林道がそうだという。が、峠の名前が違うようです。 福知山側の竹石では『畑峠』と呼んでいますが、こちらでは『ささなみ(あるいはさざなみ)峠』と言うらしい。 「あの辺りの字がそう言うんや」と、ご住職。ちなみに内田嘉弘氏の著書である『京都丹波の山』では 笹場峠と書かれているがそんな名は聞いたことがないとおっしゃる。 10時30分。礼を言ってスタートです。林道の入口は電撃柵といつもの鹿避けネットとで二重に封印がされています。 それをかいくぐって入りますが、そんなことしているだけあって久しく人の入った形跡はありません。 路面には一面に草がボウボウで朝露で濡れています。すぐに終点となりそこをのぞくと小さな谷川があり、黄色の プラタンクに水が貯められパイプでどこかへ引かれている。そしてNHKのアンテナケーブルが谷川をまたいで 上に向かっている。うん、どうやらこれやね。
登り始めてすぐに気が付いたが山ビルが登山靴の上に這い上がっている。「うわっ!ここってヒルがおるんや」 好事魔多し。こういうときに限って『ヒルノック』(ヒルの忌避剤)は車に置いたままだし、リュックにある 普通の虫除けスプレーも残り少ない。しかたなくそれをスプレーしたり手で払いのけたりするが 次から次に這い上がってくる(歩いているのにもかかわらずですぞ!!)すぐ西にある居母山から たぬきさんご夫婦が無線で呼びかけてきたので現状を説明する。「えっ〜!!こっちにはぜんぜんおらんよ」 杉植林の斜面をつづら折れに、しかも急登りが連続している。汗でTシャツが見る間にズクズクに濡れてくる。 これが昔からの峠道だとはちょっと思えない。 NHKのケーブルの埋設標が要所要所であるのでそれの為の道だったのだろうか?しかし峠には迷うことなく たどり着けた。11時ジャスト。ささなみ峠(畑峠)の石仏はまったく傷もなく150年この峠を見つめている。 「おっ?!この男また来よったなあ」なんて思っているのかな? ヒルをはたき落としながら登ってきたので見落としは無いと思うが念のため靴を脱ぐと靴下に一匹。さらに ズボンの裾をたくし上げると左足のすねに一匹。こいつは食事の真っ最中で、その膨らみ具合からして腹半分ぐらいか。 すねに齧りついているところをカメラで撮りたかったが、この根性無しは裾をたくし上げたとたんに地面にポトリと落ちた。
お腹一杯になるともっと大きくなります。たぶん吸っていた時間は20分ほどだっただろうから 30〜40分ほどで満腹になるかと想像する。写真はコロコロとしてまん丸の状態だが、見ていると頭の部分がビヨ〜ンと 延びたりする。あれでスパッツの隙間から入ってきたり、地面から靴にくっつくための技なんだろうね。 吸われたすねを見ると吸い口は針の穴のように小さいのに血が止まらない。これはヒルジンという血液の固まらない 成分が作用しているからです。このままでは数時間ずっと血が流れたままの状態になる。そこである実験をする。 それはポイズンリムーバーという器具があるのでそれでヒルジンを吸い取ってみようというものです。 何度か操作して血を吸い取ってはティッシュでふき取る。そしてバンドエイドを貼り付けるが下山まで出血は止まらず、 4度ほど張り替えることになる。 あるサイトでは『ヒルジンは水で洗い流すと止血する・・・』なんて書いてあったが、そんな生やさしいことで 止血するはずはない。かといってリムーバーが効果がないわけではなく、なにもしないよりはましだったと思う。 それ以上にヒルに吸われると数日はかゆいのが続くがそれがまったくなかったのはリムーバーのおかげだと思う。 (登山用品店で1000円前後で売っています) |
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尾根には良い道が | さらに良い雰囲気に |
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石仏の裏から北方向へ歩き始めます。すぐにNHKのアンテナがある。それを過ぎると植林の中を歩く。
見上げると桧だったのでホッと一安心。桧林の中にはきっとヒノキチオールが充満しているだろうから
ヒルはいないだろうと想像するからです。念のため両足のすそをまくったまま歩く。その方が
万が一ヒルが取り付いてもわかりやすいからね。
561から右に折れるところが要注意。少し伐採されて明るくなっている所が目印になる。ヌタ場を右に見て 進もう。589の手前の尾根が雑木が茂り鳥のさえずりの聞こえる気持ちいい尾根だった。 四等三角点のある点名『仏坂峠』、標高577.0mには12時05分着。足元を気にしながら歩いたので ずいぶん時間が掛かってしまった。いつもの無線仲間がさっきからおしゃべりをしている。ここから仏坂峠に 降りてしまうと電波が届かないと思いここで小憩を兼ねて声を出す。
仏坂峠(ほっさかとうげ)には12時45分着。さきほどの三角点から距離はないのだが峠方向へ まがるポイントを間違ってしまい植林斜面をさまよってしまったのです。峠のちょっと福知山寄りに 石仏があります(夜久野側にもありますがこれは下山時に見てみましょう)。 舟形光背のなんということはない地蔵菩薩ですが、その光背に彫られている文字が難しい。 この地蔵の横には石碑がある。頭の部分が欠落していますが、それは横に転がっていました。これはなんとか 読めそうです。中央の頭には梵字のサ(観音を表す)下部には蓮華座、そして中央には『南無観世音菩薩』とある。 右には『是 ![]() お弁当もまだ食べていませんし、時間も圧しています。寺跡に向かって最後の力を振り絞りましょう。 登りですから迷う心配はありません。福知山市と夜久野町との境界は問題なく歩けます。 517ピークは重要な分岐ピークですからしっかり目に焼き付けておきます。 実は別途地図にあるFからこのピークまでは富久貴寺への参道だったと言われています。 伝説では途中に仁王門が在ったと言われ、F(ニゴロ峠)の名前の由来は仁王から来ているとか・・・。
このC〜Fのコースは秋から冬にかけて来てみたいコースです。途中で石仏とか仁王門跡などを 発見できたらどんなにすごいでしょう。などと言っているうちに伏見山の頂上が見えてきました。 寺跡もすぐそこです。時計を見ると13時15分。ここは日陰になっているし倒木がベンチ代わりにも なるので遅い昼食を済ませます。 境界の西側は伐採跡の笹原。鹿が何頭も走り回っています。そして東側は杉植林で薄暗くなっていますが フラットな敷地跡らしいところがありました。中に入って礎石でもないかとうろつきますが もちろん何百年も経っていますからなにも発見は出来ませんでした。 暗い植林帯から出て明るい稜線で休憩します。 |
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廃寺跡から西方面を見る |
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西方面には展望がありますが、今日はあいにくひどいモヤで遠望はありません。空気が澄んでいれば
氷ノ山もバッチリなんですよ。正面に見える居母山を双眼鏡で見ると頂上のあたりもよく見えます。
とっくにたぬきさんご夫婦は下山されていますが、いればお互いを双眼鏡で眺めながら無線をする
ことも出来たでしょう。
正面は大展望、後ろは廃寺跡。なにげなく後ろを向いて声を出してみるとすごい反響!! これはオカリナを吹けと言う神託では??と、勝手に決めつけて数曲吹いてみる。 たぶん鹿達も聞いてくれいたでしょう。
頂上には行きませんでした。時間を見ると14時45分。そのまま仏坂峠までピストンで下山します。 その前に防虫スプレーがなくなったのでエアーサロンパスを足に振りかけます。 ちょっとは効果あるかも・・・。 峠から夜久野町側へ少し下るとそこにも石仏があります。前回はすごく暗かったのですが 周囲の杉が伐採されていてずいぶんと明るくなっていました。 道は明確です。石仏のちょっと下から棚田跡が現れ始めました。ここは谷がずいぶんと 広いのでこんな所まで棚田を造ったのでしょう。 もうまもなく里に出るという頃、コーナーを曲がったところでおじさんと鉢合わせになって驚く。 むこうもこんな所で人に出会うとは思ってなかったよう。聞くと鹿を捕るための罠を仕掛けに行くらしい。 月に15〜20頭は捕るという。鉄砲を振り回すへたくそハンターよりはましかも。 「この峠道にはヒルはいませんでした」というと 「いるいる!!朝方、草が濡れている頃なんかはうようよしてるわ」私「・・・・」 圓満院には15時30分。ご住職からねぎらいの言葉とお茶までいただきました。 次回はヒルのいない時期に来たいものです。 今回の伏見山の地図は こちら(約170k) でごらんください。 |