光明山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『八鹿』を参照していただくようお願いいたします。

2003. 5. 9.  金曜日  晴れ  気温心地よい
私は地元である播州地方を足掛かりとして北摂、丹波と徐々にその足跡を 遠方に向けて延ばしているつもりだが、最近になってようやく但馬方面にも その目線が向いてきたように思う。もちろんそれはガイド本に載っているような 有名な山のことではなく無名に近い低山の話題である。去年は大路山、金梨山、室尾山 等々を登ったが、それらよりちょっと奥に位置するこの山が今日の山である。

円山川右岸道路を進んでいると養父道の駅付近からこの山が秀麗な姿を現しはじめる。 まったく事前の情報を持っていないのでとりあえず真南に位置する鉄屋米地に来てみる。 玄関先で立ち話をしている人を捕まえてこの山のことを聞いてみる。 それによると、この周辺からの登山道あるいは仕事道はないということだった。 「東山麓にある大藪に行ってみたら?」というアドバイスに従ってそちらへ向かう。

養父(やぶ)郡は風土記に『此地往昔民家なく竹藪のみ故に藪という。今養父(やぶ)というのは其訛なり・・・』 とある。その養父郡にある大藪という【ヤブx2】からにはさぞかしすごい所なのだろう。不安と期待を持ちつつ行ってみる。 私の考えとしては大藪から大江に抜ける峠道を利用してその峠から尾根沿いに山頂へ行けると考える。 まずはその旧峠道の有無を確かめてみたい。

聞き取り調査をしてみるがこれはと思える情報はなかった。峠へ至る村道は細い舗装路で ゆっくり走らないと車体を擦ってしまいそう。最後に出会ったおじさんがいい話を聞かせてくれた。 大江に至る峠は『おしがタワ』と言い、右岸道路が出来るまでは峠道で大江との交流が 盛んだったらしい。峠を利用した私の考えるルートで登ることも可能ということだ。さらに 「昔(戦後間もない頃)はあの頂上で雨乞いのたき火をしたんや。まだ地面に炭が多く残っている・・・」 これらの話でいよいよ登りたくなる。
石垣の向こうに廃屋?こんどは廃坑が・・

『泉光寺案内』という看板の近くに空き地があるのでそこへ駐車する。10時30分スタート。 歩き始めてすぐに右手の小川を越える小橋があった。覗いてみるとその奥には広大な 棚田跡がある。今では杉植林が植わっているが手入れされている様子はなかった。 戻って峠道を進むと峠道も橋を渡って谷の奥へ延びていた。軽自動車でも走れるほどの 幅がある。

右上に石垣が見え、なにやら鉄骨の残骸とか廃屋もある。気味が悪いし時間を食いそうなので素通りする。 地形図を見ると、なんとこの廃屋も示されている。何の廃墟なのだろうか? 谷に沿ってある峠道のこんどは左手に坑口がぽっかりと口を開けていた。 かがんででないと入れない大きさだったが掘った壁面はきれいだった。 先ほどの廃墟は鉱山跡なのかもしれない。

この先から急に道は不明瞭になる。地形図では行く手で谷が二股になっていて正解の左手に 入らずに右手に入り込んでしまった。分岐に戻って左手の谷の道のない斜面を登っていくと なんと林道に飛び出た。大藪のどこからかこの林道は登ってきているようだ。林道がどうなっているか 気になったのでそのまま林道を歩いてみたが300mほど先で終点だった。 引き返して谷に入る。

ちょっと寄り道が多すぎた。どういうわけか明確な踏み跡が復活している。調子よく登っていったが その踏み跡は谷から離れて山腹を巻きはじめた。鹿避けネットをくぐるとそこは伐採地になっていて 一気に明るく開けてくる。そのまましばらく山腹を歩くが時計を見るともう12時になっていた。 赤松の陰で涼しい風に吹かれながらお弁当を食べる。
昼食ポイント付近から(御祓山の右肩に肉眼で藤無山も見える)

15分ほどで再スタートする。しばらくして気が付いたが、ネットをくぐってここに出たのは間違いだった。 というのもネットの向こうが正解の道だったからだ。しかたなくゲートを探しながらネットに沿って歩くが それらしいものはなく木に登ってネットを飛び越える。

養父町と八鹿町の境界尾根を離れていよいよ光明山への尾根に入り込む。ここは尾根が広くて平らなので 迷いやすい。当初予定していた『おしがタワ』に寄れなかったので、帰りはピストンを考えていた。 ところがコンパスを持ってこなかったので、帰路にこの尾根から変に下ってしまわないか不安になって なんども振り返って風景を頭にたたき込む。
ヌタバのおたまじゃくし広い尾根だが枝が張って歩きにくい

広い尾根には付き物のヌタ場も二カ所あった。うっすらと溜まっている水は以外と澄んでいて 思った通りオタマジャクシがうようよとうごめいている。ここも目印には好都合だ。 尾根は広いが枝の張り出しがきつくて歩きやすいとは言いにくい。 それでも平坦だけにペースは稼げる。 きれいなドーム状の山頂が目前になる頃、東方向に鹿避けネットのある伐採地が現れる。
伐採地から東方向を見る

昼食ポイントとは違ったアングルなので眺めていても飽きない。床の尾のピークや兵庫京都の県境尾根 が思ったより遠くに見える。地図にないような林道も所々に見える。植林の山肌よりも自然林の淡い 緑が多いのがうれしい。ネットを越えればもう少し視界も広がりそうだったがゲートを探す時間も ないので山頂へと行く。

最後の急登りをクリアーするとそこには広い山頂が広がっていた。13時ジャスト。標高554m。 まったくのフラットではなくこんもりと盛り上がっている。枯れた笹以外には下草もなく雑木が ポツンポツンと立っている。笹に隠れるように小さな標石はあるがここには三角点は設置されていない。 一本の木に木製の札が掛かっていた。表面はくすんでいてはたして文字があったのかと思うぐらいだった。

周囲を少し歩いてみるが東方向の中米地と南西方向の大藪へ下れそうな道がある。 付近の地面を杖でほじくってみたがおじさんの言うようなたき火跡の炭は確認できなかった。 しかし雨乞いをするにはうってつけの頂上だと思う。 別の木になにやらオレンジ色のプラスチックの小片がぶら下がっている。近寄ってみると 最近よく目にする『香住の海と山を探す会』のプレートだった。

『2001年12月29日 雪に覆われ三角点の標石が見つからない 雑木で展望は苦しいが  歴史を感じて・・・』とある。 大倉部山の時もそうだったが、どうもここの会はトンチンカンな事をいつも書いている。 ここには三角点が無いことすら調べずに登っているのだろうか? それ自体はたんなるアホと片づけられる事柄だが・・・・。このプレートがいけません。 枝にぶら下げられているのならまだしも、幹にネジか釘のようなもので 打ち付けられています。本当に山が好きなのか?自然が好きなのか?
山頂にて南西へ下る

気分を落ち着けて 南西方向の尾根を少し歩いてみる。すると緩やかな下りでめっちゃ明確な道が続いている。 ピストンで引き返しておしがタワを確認がてら(峠に石仏があったりして・・・)下山したかったが これを見てしまうともう引き返せない。そのままこいつで下山を開始する。 これだけ道がしっかりしているということはこちらからが本来のルートなのかもしれません。
下山路途中から棚田跡

ネットのある伐採地に出る。そのエリアは狭いが今までと見える方向が違うので遠く妙見山、蘇武岳 も確認できる。モヤのためあるはずの氷ノ山は見えなかった。 この南西尾根も終点に近づきはじめた。そろそろ下る方向を決めなくてはいけません。 駐車ポイントへはこの方向かと思える踏み跡があったのでそれを選択する。

やがて植林の激斜面になって道は無くなった。コンパスがないので勘で方向を外さないように 出来るだけ下りよさそうな所を選ぶ。下方に小さな流れが見えはじめ石垣も見える。 どうやら棚田跡の植林帯らしい。下り降りて倒木を跨ぎながらその棚田跡を横断していく。 ここは今朝見た棚田跡だった。川を渡ると駐車ポイントから1分ほどのところ。 まさにピンポイントで下山できた。14時15分。

朝出会ったおじさんが畑仕事をしている。最初見た鉱山跡のことを聞くと、なんとそこで働いていたらしい。 含有率の高い鉱石が採れて調査に来た大学の先生も驚いたという。2トン車に鉱石を積んで岡山の 精錬所に持っていくと「これって、ほんとに日本で採れた鉱石か?」とまで言われたそうだ。 その2トン車で26万円の現金になったというのは当時としてどれぐらいの貨幣価値なのでしょうか? 東京オリンピックの頃だと言うからまだ最近のことだ。おじさんはずいぶんと誇らしげに話されていたが、 廃坑になったということは短い寿命だったのでしょう。

最初に戻るが米地からの登りを考えるなら、中米地の真北にある谷奥に、今は廃村になった 大谷という所がある。そこからも大江に抜ける峠道が二本あったという。 それに行くまでの支尾根からも登れそうだし、廃村探検、峠道探索をかねて訪れるのも面白そうだ。

今回の光明山の地図は こちら(約120k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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